2月12・13日 ▼マリンディ2日間〜水先案内人・金丸さんと歴史海道をゆくツアー
「自分が行きたいから作ったツアー。半分以上は自分の趣味です。」と公言するのは水先案内人の金丸さん。
8世紀、アラブ商人によってインド洋における「大航海時代」が幕を開けた。ペルシャ湾からインド 洋、そして南シナ海まで9600kmの航路(海の道)が確立されたのである。一方、中国の商人はジャンクに乗って東アフリカまでやってきて、盛んに交易をしていた。そして13世紀に は、ポルトガル人バスコ・ダ・ガマがインド航路を開拓。ヨーロッパにおける「大航海時代」がはじまった。そう、このコースは船内講座「歴史海道をゆく」の実地編。「当時のアラブ人、中国人、そしてポルトガル人の足跡をたどり、思いを馳せる。ひたすら想像力の世界です(笑)。」サファリだけじゃないケニアを感じた異色のツアーだった。
モンバサから北へまっすぐ250km。うっそうとしたジャングルの中に「東アフリカのアンコールワット」と呼ばれるゲディ遺跡がある。ゲディは13世紀に建造され、17世紀まで繁栄したアラブの商業都市だった。全ての建造物は、珊瑚と石灰で造られている。宮殿跡では4つの部屋の跡を見ることができる。応接室では、床に穴を開けて水を通し、その冷気によって部屋を涼しくする冷房機能が備わっているのにビックリ。
また、スルタンや大臣達の話し合いの場であった議会場には、しゃべるとエコーがかかるような仕組みまで。そして建造物だけでなく、遺跡を割るようにイチジクの木が生えてるところまでアンコールワットにそっくり。「バオバブの木が一本立ってるだけって聞いてたのに、すごい!」と金丸さんも大はしゃぎ。
遺跡の近くにある小さな博物館には、ダウ船の模型をはじめ、当時の繁栄を物語る展示物やここで発掘された品々が展示されている。その中で、中国の銅銭・陶磁器を実際見たときはちょっと感動。本当に、ケニアに中国の陶磁器があるなんて!当時の中国の航海術と、インド洋における盛んな交易を物語る確かな証拠だ。
ここマリンディは、1499年、バスコ・ダ・ガマがインド航路開拓に先立って立ち寄ったという港町。この事実を記念して作られたバスコ・ダ・ガマ・クロス(十字架)が、灯台のように岬の先端に立っている。そのそばからインド洋を見渡していたら、なんと遠くから数隻のダウ船が!「うわー!」とそのロマンあふれる眺めに思わず声を上げる参加者達。
実は、ガマの「功績」の裏には、2人の人物の存在があるという。1人はエンリケ航海王子。ポルトガルが海洋国家として飛躍する礎を築いた人物だ。そしてもう1人が、バルトロメウ・ディアス。彼は、欧州人として初めて喜望峰を周り、さらにインドへと航海を試みるが、困難な航海で疲労困憊した乗組員に反対され断念。2度目はガマのサポート役として航海に参加したものの、途中でポルトガルに引き返すことになった。3度目は…船が喜望峰沖で沈没。彼は結局インドに到達できなかった。派手な歴史の裏にはもう一つ別の歴史がある。
15世紀に、ポルトガル人がこの地にキリスト教を持ち込んだ。その最初の教会が、ここポルトガル教会。バスコ・ダ・ガマのマリンディ到達から40年後の1542年に建造された。とても小さな教会で、とんがり帽子のようなわらぶきの屋根にちょこんと十字架が乗っている。日本史上でも有名なフランシスコ・ザビエルが2人の兵士を埋葬したというエピソードも。
マリンディには、アラブ商人の影響でイスラム教のモスクが数多く残っている。中でも最大のジャミア・モスクを訪れた。マリンディのイスラム教徒の4分の1(2500人程度)が礼拝できる広さ。中には入れないが、敷地内に興味深いものが見えた。まるで男根のような形をした墓柱。「どこかで見たことは?」の質問に参加者は「???」。そう言えば…昨日訪れたケディ遺跡!
「ここは当時、不妊症の女性に対する秘密の儀式が行われていたのではないかと言われています。それから墓柱の囲いにはかつて中国の陶磁器がはめこまれていたのですが、今は全て持ち去られてなくなっています」モスクの中にもこんな形で遺産が残っている。
これこそ、思いっきり金丸さんの趣味。実は、ここが彼の最大の目的地だったのかも?(笑)。
ゾウガメと一緒に記念写真を撮ったり、ワニ肉の串焼き(焼き鳥のようなもの)を食べてみたりと参加者もまんざらでは無い様子。大きな蛇(もちろん毒のない)を首に巻くチャレンジャーも。
(真家)
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