4月25日
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バナバ島からきた人たちと交流
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フィジー共和国の北端に位置するランビ島には、そこからさらに1000km北に位置するバナバ島(現キリバス共和国領)を故郷とする「バナバ人」のコミュニティーがあるという。
1900年、イギリスの会社がバナバ島内でリン鉱石を発見、その利権に目を付ける。以来、イギリスによる採掘と土地の買い上げが始まり、島は破壊つくされてしまった。採掘のために強制移住させられたバナバの人々は、故郷を遠く離れたまま、60年近くを生きてきたのだ。このコースでは、首都スバに移り住んできたバナバ人たちのコミュニティを訪れ、「南太平洋の忘れられた人々」と呼ばれる彼らの話を聞き、文化交流をおこなった。
スパ市内にあるバナバ人コミュニティ集会所に到着すると、とびきりの笑顔とあったかい握手で迎えられた。私たちも「コナマウリ!(こんにちは)」と覚えたての言葉でごあいさつ。「このようにみなさんと交流の場を持てることを非常にうれしく思います」と代表のロンゴロンゴさんから愛嬌たっぷりの挨拶。集会所は一気に和やかなムードに包まれた。
コミュニティの「長老」カロロさん夫妻に、バナバ民族の歴史と現在をお話しいただいた。私たちが大きな衝撃を受けたのは、バナバ人が故郷を追われた歴史に日本が大きく関わっているという事実。
1942年、第二次世界大戦の最中、英軍の後がまとしてバナバ島に上陸した日本軍は、イギリスと同じくリン鉱石に目をつけ、採掘の邪魔となるバナバ人たちをコスラエ、ナウルといった周辺の島々へと強制移住させた。移住先では重労働が課され、罪も無い人に対する虐殺行為も行われていたという。戦後、日本軍に代わって「戻ってきた」イギリスが、リン鉱石の採掘を続けるため、さらに人々をランビ島へ移住させ、現在のバナバ人コミュニティができあがった。
実際にバナバ島からの強制移住を体験した「被害者」の1人であるカロロさんが、「今はみんな友達なのさ」と微笑んでくれた。
「普段の生活を体験してみたい」ということで、昼食で使用するお皿作りを手伝わせてもらった。さすが南国フィジーと感心しつつ、空腹のお腹を抱えながらヤシの木の葉でお皿を作る。みんなで一生懸命作ったお皿は…不格好きわまりないのでした。
輪になってごちそうになったのは、彼らが普段家で食べるのと同じようなメニュー。生魚、タロイモ、かぼちゃ、ココナッツ…ところで、なんともユニークでおもしろかったのが食事前の儀式。まずは長老が祈りを捧げる。そして、「ホイジャッサーナーウェイ」という(ふうに聞こえる)言葉を合図に、みんなが「テーケロイ」と叫び皿を頭上にかかげる動作をするのだ。ロンゴロンゴさんが巨体を揺すりながら実演してみせてくれた。
食事に続いて女性たちが披露してくれたのは、バナバの伝統舞踊。貝殻などで作った衣装に身を包み、リズミカルに腰を動かす。バックに流れる音楽も、バナバに伝わる伝統的な歌だという。島を追われても、バナバの文化は確実に今を生きる子供たちへと受け継がれている。
みんなで記念撮影をして集会場を後にした。彼らは毎週日曜日にこの集会場に集まっては食事をしたり会議を開いたりしているという。そうすることでコミュニケーションをはかり、バナバ人しての誇りと伝統を守ろうとしているのだ。戦後53年間、かえりみられる事の無かった人々。しかし、少なくとも私たちにとって、彼らはすでに「忘れられた人々」ではない。彼らが望む故郷への帰還が実現する日が、1日も早く訪れることを祈りたい。
(吉田)
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