4月5・6日 ▼パブロ・ネルーダとピノチェト検証▼ |
1973年9月11日、ピノチェトを中心とした軍部のクーデターにより、世界でも例のない、「選挙で選ばれた社会主義政権」アジェンデ政権が崩壊。その後1990年まで続いたピノチェト政権下では、殺害された人約3000人、行方不明者約1000人ともいわれる多くの被害者が生み出された。
このコースでは、アジェンデ政権時代を支えた人々について知り、そして軍政時代に「虐殺」された人たちの遺族が今なお続ける闘いについてお話を聞くことができた。
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世界初の民選社会主義政権を担ったアジェンデ元大統領の記録を後世に残し、また様々な文化活動の支援を目的として活動しているのがここ「アジェンデ財団」。
国からの援助は一切なく、スウェーデンやスペインなど国際的な支援により運営されているという。それでも乏しいという財政状態を知った参加者から突然上がったのが、「カンパを募りましょう!」の声。「気持ちばかり」ではあったけれど、その場で手渡すことができた。
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アジェンデ財団によって運営される「連帯美術館」には、1700点もの美術品が納められていた。アジェンデの「市民の財産を集めよう」の声に共感した世界中の芸術家による、世界で唯一、寄贈された作品のみの美術館となっている。
残念ながら館内の見学時間はわずかになってしまったけれど、並ぶ作品は確かに素晴らしいものばかりで、参加者はみんな熱心に見入っていた。 |
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映画「イル・ポスティーノ」でも知られる、ノーベル賞詩人パブロ・ネルーダの旧宅を訪れた。民衆の視点から謳いあげた詩を発表し続けたネルーダは、チリの国民的英雄の1人。アジェンデとの交友も深く、彼の死後もその詩は、チリ民主化運動の1つの象徴となった。
一緒に暮らしていたのは「愛人」と噂された女性だとか。奥まった所に建てられ、外観に比べて敷地内が立派なのはそのため? |
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行方不明者家族の会(AFDD)のメンバーと、昨年完成したばかりのオフィス「記憶の家」にて交流会が開かれた。
「ピノチェトによる軍政時代、まぎれもなく行われていたのが人権弾圧でした。行方不明になった者の家族がこうして団結し、行方不明者の生還とピノチェトをはじめとする加害者の責任追及を行うため、クーデター勃発当初から、現在に至るまでの約27年間活動を続けています。それは、私たちが行方不明になった家族を真に愛しているからに他ならないからです。私たちはこれからも闘い続けていきます。私たちの歴史を聞いていただき感謝しています。」
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夫が行方不明となっているチェラ・サリーナスさんが、自らの体験を語ってくれた。
「(クーデターから4年を経た)1977年7月7日、私の夫は行方不明になりました。私と、そして8人の子供たちを残して。その後、息子の1人は身を隠しながらの生活を強いられ、娘の一人は逮捕され囚人となり、その他6人の子供らも国外へ亡命しました。私は自由のために、そして夫の行方を知るため、今日まで闘ってきました。私が特別なのではないのです。母親たちの代表だと思い、今日この場で話しています。」
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夕食を囲みながらの交流会の後に行われたのは、日本でいう「灯籠流し」のようなセレモニー「ベラトン」。風に揺らめくろうそくの灯は、家族らの切なさと意志の強さを同時に感じさせる。
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若手のシンガーソングライターを育て、また貧しい地域に対し文化活動を行うことを目的とした「ビクト・ハラ財団」を訪ねた。
ビクトル・ハラは、1950年代から60年代にかけ、ラテンアメリカの民族音楽を取り入れ、貧しい人々の叫びを歌い上げることにより、社会の不正を訴えた「新しい歌」運動の旗手の1人。アジェンデ政権の協力者であった彼もまた、クーデター時に犠牲となった。今でも、若者を含む多くの人々が彼の歌に影響を受けているという。
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