「エリトリア日記」Vol.5 8月31日(金)(by 大場寿人) |
先週は、車に乗ってアスマラを離れ、アルクダット(Akordat)という街に行ってきました。アスマラから西に90キロ程行った所にはケレン(Keren)という街があります。ここはアスマラ、マッサワに継ぐエリトリア第3の都市だそうです。今回の小旅行ではとりあえずこのケレンを通り過ぎ、さらに140キロほど西に進み、バロント(Barentu)という街に向かったのです。このバロントの街もやはり戦争の被害を受けたとのことで、その様子を見に行こうと思っていたのですが、僕らの訪れた一週間ほど前から、外国人は許可証がなければ入れないことになってしまったとのことで、今回はバロントの街に入ることはできず、その手前の警察のチェックポイントで追い返されてしまいました。仕方なく、そこから再び60キロほど戻ったところにあるアルクダットの街に行くことにしたのです。
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絞りたての牛乳を差し出すビレン族 |
バロントのチェックポイントからアルクダットに戻る途中、サホ族の伝統的住居を見てみようと車を降り草原の中を歩いていくと、牛の放牧をしている人々に出会いました。彼らは非常に好意的で、我々を彼らのキャンプに案内すると、牛のミルクを搾り、なたで木を切り火をおこし、取れたてのホットミルクをご馳走してくれたのです。彼らはサホではなくビレン族の放牧民だそうですが、こうして一年中、草の生えている地域を回り牛の放牧をしているのです。そのうちの一人の男性は、もう一年も家族に会っていないと言っていました。家族はケレンの街で彼の帰りを待っているそうです。彼らは戦争が起きる前はエチオピアとの国境に近いバロントの先のほうに住んでいたのですが、戦争が始まってから彼らは土地を追われ色々な土地を転々としているそうです。のどかで平和そうに見える彼らの生活にも戦争の影響は強く及んでいるのです。
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ティグレの伝統的住居に住む人々 |
アルクダットの街に戻ると、その街の横には木の枝を組んで作られたティグレ族の伝統的住居が無数に並んでいる様子を見ることができます。これは、独立戦争時にスーダンに避難した人々が独立後に帰ってきたものの住む所がないので、政府が臨時の住居として簡易な伝統的住居を作り、彼らに貸しているものだそうです。彼らは独立後の今もいまだ難民としての生活を送っているのです。そこに住むある若い女性は、エリトリアでパスポートが取れたらスーダンに帰りたいのだ、と言っていました。彼女にしてみれば故郷はスーダンなのでしょう。エリトリアの独立戦争はエチオピア植民地時代に“わが国エリトリア”の独立を目指し30年あまり続けられた戦争です。しかし、その過程でその“わが国”を失った人も少なくないのでしょう。戦争難民として隣国に逃れ、その地で産まれ育った子供にはその生まれ育った地が“わが国”であり、エリトリアに対するアイデンティティというものは育まれなかったのでしょう。しかし、彼女らが“わが国”と考えるところの“その地”にあっても、彼女らは国民として受け入れてもらうことができないのです。“その地”その国にとって彼女らは難民に過ぎないのですから。
また、間接的に聞いた話ですが、国境付近に生活している人々は今なお両国軍に対しダブルスタンダードを持っていないと平和な生活を送ることはできないのだといいます。つまり、エチオピア軍がくれば自分はエチオピア人との認識をもっているかのように振る舞い、逆にエリトリア軍がくればまたそれに従う、というのです。実際、国境付近の街では、あるときはエリトリア領だったりまたあるときはエチオピア領だったりしますので、どっちの国民であるというアイデンティティはあまり強くはないらしいのです。ただ彼らは農業や酪農により生活を営めればそれでいいのでしょう。戦争によって、土地や家や生活道具や場合によっては家族までをも奪われてしまった彼らにとっては、戦争は破壊以外の何物でもないのであろうと思います。
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戦争は常に多数派または強者の論理で行われます。多数派・強者にとっての“正義”がその国における“正義”になってしまうのです。そこでは少数派や弱者・敗者の利益は忘れ去られてしまいます。この仕組みは戦後を向えた今現在も完全に除去されたわけではありません。
エリトリアでは今なおエチオピアとの緊張状態は続いており、立憲制度(憲法を頂点とした人権保障を図るための統治制度)はいまだ回復していません。そういった状況の中で優先されるのは常に多数派の利益なのです。ひとつの独立国家を目指し、その建国、国の発展を目指す中で、少数者の利益が軽視されてしまうのは仕方のない流れなのかもしれません。今は国家に忠誠を誓い皆でひとつの目標に向うべき時であって、それに反対する者は我儘な奴だと言われてしまう。場合によっては全体の秩序を維持するために、強制的に拘束されてしまう。それは国家の発展を目指すために仕方のないことなのでしょうか。
平和でそして経済的発展を遂げた国、日本、に産まれ育った僕には、その辺の発想がいまいち体の中にすんなりとは入ってこないのです。もちろん、だからといって日本的もしくは西洋的人権感覚というものを一方的に押し付け、人権侵害!!と声を挙げることが良いことなのかというと、それもよく分かりません。我々も歴史の中で少数者・弱者の声を押し殺し、その中で発展を遂げてきました。例えば、ヨーロッパ諸国はアフリカを、そして日本もアジアの国々を植民地化し、その中で被植民地の人々の犠牲の上に利益を搾取してきました。また国内でも同様の論理は強く働いていたでしょう。そしてそういった歴史の上に築き上げられた“先進国”の利益を享受し生活している我々が、今まさに発展を目指す彼らにその方法を非難する資格があるのかどうか、分からないのです。
しかしそれでも、戦争で土地を追われた放牧民の彼ら、スーダンに避難し“わが国”を失った彼女達は、僕には幸せそうに見えました。多数派だ少数派だ権利だなんだということを考えることなく、日々自然と共存しながら生き、その毎日の瞬間を楽しんでいるように見えたのです。とりあえず、僕にできることは彼ら彼女らの生き方を尊重し、その価値観を尊重することなのではないかと思いました。もちろん、彼らの表情のほんの一部だけを見て“幸せそうに見える”と言ってしまうことには問題があるでしょう。場合によってはそういう発想自体が暴力になり得るのかもしれません。でも、それでもやはり幸せそうに見えてしまったのです。そしてそう見えてしまった以上、やはり彼ら彼女らの価値観を尊重したいのです。そしてその尊重の上で彼ら戦争被害者の問題を考えなければいけないと思うのです。多数派の利益のために犠牲になった人々に対し、多数派たる国家はどのような補償をしていくのか。そしてさらに、今なお存在する政治的少数派に対してどのような態度をとっていくのかという問題も含めて。
とにかく、今のエリトリアには数多くの“戦後問題”が存在しています。例えば、日本はその“戦後問題”を根本的に解決することなくうやむやにしてきたため戦後50年以上を過ぎた今でもなお隣国との間で重大な政治問題、人権問題を抱えています。是非、エリトリアにはそのようなことなく“戦後問題”の早期かつ根本的な解決を実現し、新たな国家建設に取り組んで欲しいとつくづく考えさせられてしまいました。また、そういった過程にあるエリトリアの人々に対して、我々日本人が、彼らの(多数派・少数派ともに)考え方や価値観を充分に尊重した上で、同じ過ちを繰り返さないよう、どういった態度をとっていくことができるのかどうか。非常に難しい課題であると思いました。 |
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