1月26日 ▼シンガポール知ってるつもり!?▼ |
第二次世界大戦中、1942年2月15日に日本軍に占領されたシンガポールは、以後「昭南島」と改称され45年8月まで3年6ヶ月にわたる軍事支配を受けた。
そして現在、シンガポールを訪れる日本人観光客は年間100万人を越えているという。「観光」だけでは見えてこない、日本とシンガポールの歴史を検証した。 |
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船が着いたワールドトレードセンターから世界一高いケーブルカーでセントーサ島へ。 敷地内の「シンガポール歴史民族博物館」にある『日本軍・降伏の間』を見学。日本軍が連合軍に降伏した際の様子や、日本占領下で生き延びた兵士の悲惨な体験や遺物、当時の記録・文献が子どもたちにも分かりやすく展示されている。ここでは、シンガポール大学大学院客員副教授である頼涯橋(ライ・ア・キョウ)さんにお話を伺った。 |
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「当時のシンガポール人口80万のうち5万人が犠牲になりました。家族のうち少なくても1人は日本軍に連れ去られ、そのまま行方不明になったのです。今の日本人を恨んではいません。しかし歴史の事実をしっかり視つめ、行った行為を反省し、その上で未来を良くしていこうとしないことがとても残念です。占領された側の歴史を『事実』として知って欲しい。」 |
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日本の教科書には掲載されていないような資料やデータが数多く展示されている。当時のアジアの人々の目に、日本がどう映っているのか。マレーシアやシンガポールの人々は、中国における南京大虐殺のように、市民の虐殺や強姦が繰り返されるとおそれたという。アジアの人々の記憶の中の「日本人」は、凶暴・好色・憎悪・侵略者であった。広島や長崎の原爆によって日本が壊滅的な打撃を受けたと聞いて「うれしかった、これで戦争が終わると思った」という。 |
被害者意識は強いが、自分たちを加害者として考えることは少ない、そういう日本人の意識を改めて考えさせられた。 |
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次に訪れたのは「日本占領時期死難人民記念碑」、別名「血債の塔」。日本軍占領期に犠牲になった人々の慰霊碑。高くそびえ立つ4本の柱に囲まれるように黒い壺が置いてある。4本の柱にはそれぞれ、中国人、マレー人・インド人・その他の民族(主にヨーロッパ人)の犠牲者たちを追悼する意味が込められている。そして、黒い壺の中に納められているのは、この戦争で犠牲になった人達の骨だという。
ここではピースボートの参加者2名が代表し慰霊碑に千羽鶴を捧げ、参加者全員で追悼を行った。 |
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駐シンガポール日本大使がこの記念碑を慰霊のために訪れるようになったのは、わずか3年前のこと。50年以上もの間、日本の代表は犠牲者に追悼を行っていなかったことに驚かされた。 |
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抗日ゲリラとして闘い、シンガポール最大の英雄である林謀盛の記念碑。もともとは中国福建省の出身で、青年期に父親とともにマレー半島にわたった後、マレー連邦軍の陸軍少佐となり抗日戦線を闘った。最期は日本軍に捕らえられ獄死してしまうが、シンガポールではその抗日の功績を今でも讃えている。
当時の日本軍がどのようにアジアの国々を侵略し、支配したのかを知ることができ、改めて「歴史認識の共有」が日本人を含むアジアの人々の間で必要なのだと思わせるコースだった。
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