「自由文筆家」金丸知好さんによるコラム『2001年奇想天外の旅』。
奇想天外な(?)結末に向けて連載中!!
2001年奇想天外の旅<第39回>
その花は、見るからに異様だった。2枚しかないはずの葉っぱは裂け、あちこちに広がる。ひまわりをグロテスクにした感じの顔。それが沙漠に咲くウェルウィッチァだ。日本の園芸名は「奇想天外」。「こいつはまだまだベイビーだよ」とフリッツ氏が指差すのは奇想天外の雄花。「いくつなの?」と尋ねると、推定年齢300〜400歳との答え。なにしろ沙漠の地下水だけを吸って2000年は生きるという植物にとって、100歳は日本人だと10代あたり。「まだまだ青いな」というわけだ。すぐそばには雌花が。風や虫が媒介して受粉するのだという。この「奇想天外」との対面で、事実上アフリカの旅は終わった。ウェルウィッチァを見ることが、21世紀最初の海外旅行の最終目標だったから。そして、モンバサでの20日間の足止めや客船乗り換えなどなど、文字通り奇想天外な旅のしめくくりにこの植物を見ることは、理にかなっているように思えたのだ。インド洋上でコラムの名を「2001年奇想天外の旅にしよう!」と思い立ったときが、この波瀾万丈アフリカ旅行の前触れだったとは、誰が気付いただろうか?その旅もいよいよ幕。ウェルウイッチァのカップルは、そんな奇想天外に富んだ1カ月半など知らないよ、などとばかりに距離を置きながらも沙漠を渡る風のなかでいちゃいちゃしているのであった。
(2001年奇想天外の旅:完)
2001年奇想天外の旅<第38回>
朝方の雨はすぐに止み、まもなく太陽が照りつける。ジャージはもちろん、トレーナー1枚でもつらい暑さだ。この日は沙漠に生息する植物を観察しながら沙漠をドライブする。サボテンが生えている。フリッツ氏はサボテンの葉を針で突く。そこからミルクのような白い液が出てくる。「このサボテンには毒がある。ブッシュマンはこの白液を矢の先に塗って毒矢をつくったんだ」。ブッシュマンとはアフリカ南部に暮らす先住民。もともとは広範囲に暮らしていたのだが、今では入植した白人によってナミビア東部に広がるカラハリ沙漠の辺地に押しこめられている。ナミビアには彼らの残した岩壁画も残っている。彼らと会うことができれば、と思っていたが1泊2日の日程では無理だという。ちなみに「ブッシュマン」とは差別用語で、本来は「コイサンマン」と言わねばならないらしい。彼らの置かれた現状はかなりひどいという報告も何かの本で読んだ。次にナミビアを訪れたならば、彼ら先住民を追っかけてみたいものだ…。
2001年奇想天外の旅<第37回>
沙漠ディナーが終わり、キャンプ地へ。現地の旅行社によってすでにテントが設営され、その中にはベッドがあり小さなテーブルにランプ、フトンは羽毛入り。いたれりつくせりの野営体験だ。沙漠は寒暖の差が激しいと聞いていたが、思ったほど寒くはならない。上下ジャージとその下にTシャツ1枚で十分。焚火を囲んでガイドと参加者の歓談が始まる。「ゲコという虫の音が聞こえてくるから耳を澄ましてごらん」と言われ、耳を澄ませる。ンゴ〜、ガゴ〜。ひびいてきたのはテントの中からのイビキ。ビールやワインを飲みすぎて酔っ払ってしまった参加者のものだ。でも、かすかに鈴虫の音のようなものも聞こえてきた…。こちらも眠くなってきたので、靴を脱いでテントの中に置く。外に置くとサソリが入ってくるのだそうだ。テントの中は思いのほか、暖かい。ただし風は強まり、時折、テントを押す音で目が覚める。翌朝、朝日を拝もうと6時過ぎに起きたら、大粒の雨が沙漠を濡らし始めた。年間降水量を完全に超えているのでは、と思われるほどだ。おかげでサンライズもパーになったが、沙漠の雨という貴重な体験ができてかえって嬉しかったのであった。そしていよいよアフリカの旅、最後の目標に向けて動きだす。
2001年奇想天外の旅<第36回>
溶岩山の麓はだだっ広い沙漠。ここで始まったのが何とキャチボール。日本じゃこんな広い沙漠のど真ん中でキャッチボールなんてできない。いつのまにやら5人ほどが加わってフライを取り合ったり、ゴロを横っ飛びでキャッチしたり。皆が大自然のなかで子供に戻ってしまった。キャッチボールの後は沙漠バーベキュー。腹を空かしたガキのように、その会場へ。すでに黒人スタッフが夕食サーブのためにスタンバっている。白い丸テーブルも用意されている。すると先ほどまでいた溶岩山の左側の空が赤く染まり始めた。近くの岩がピンクに染まっていく。太陽がきれいに沈んでいくわけではないが、空の色が実に美しい。キャッチボールをした沙漠も、紫ともピンクとも言えない色に変わり、もはや地球とは思えぬ不思議空間になっていた…。日が沈み、雲が多くてぼんやりはしていたが満月一歩手前のふくよかな月の下、いよいよ沙漠バーベキュー!ハンザビールというナミビアのビールがうまい。植民地支配は決していいことではないが、ドイツ人は本場さながらの美味なビールをナミビアに残していってくれたものだ。サメの肉もあるバーベキューも素晴らしい。たらふく飲んで、たらふく食べた。モンバサの港のときのように「六甲おろし」が月の沙漠にこだました。う〜ん、宇宙的光景の中でも関西人はタイガースなのだ。
2001年奇想天外の旅<第35回>
次に先ほど見下ろしていた宇宙スケールの景観のなかに車は飛び込んでいく。ムーンランドスケープと呼ばれるだけあって、まるで月面をドライブしているようだ。しかしところどころに植物が息づいている。赤と白の可愛らしい花も。「ナミビアン・エーデルワイスだね」とフリッツ氏が教えてくれる。彼は単なるドライバーではなく、地質・植物なども含めた沙漠のプロガイドなのである。「ここに生えている植物の多くは毒性なんだ。人間でもそうだろ。美しい女性ほど毒があるってね!ワハハ」と言って、我々独身6人組と笑いあった。彼が独身なのはそういうことだったのか?ときおり沙漠がキラキラ光る。水晶に生まれ変わる一歩手前の石英が太陽に反射するのである。そしてこの日の晩に夕食をとる地点に到着。まわりの景色も、奇岩に囲まれた、もはや地球ではないのではないかというような沙漠地帯である。沙漠に沈む夕陽を眺めるため、溶岩が黒く散らばっている山までえっさほいさと沙漠を突っ切る。ところが何と何と小雨が降り始めた。沙漠で、しかも年間降水量5ミリの土地で雨が降るというのは、かなりの驚きである。これでは夕陽はムリだ。すると多くのツアー参加者は溶岩山のてっぺん目指して登り始めた。こちらは山登りには加わらず、ポケットからあるものを取り出した。これで遊んでやろう、と。
2001年奇想天外の旅<第34回>
「沙漠の湿度はいくらですか?」とドライバーのフリッツ氏に尋ねる。彼は言った。ゼロ!年間降水量5ミリというのだから、なるほどと納得。ところがウォルビスベイなど大西洋沿岸は毎朝霧が立ちこめて湿度は70%を超えるという。車窓では広大な沙漠と砂丘の風景からいつしか荒涼たる丘が凹凸をなす場所に変わっている。そしてひとつの丘の上でストップ。地球一周クルーズではなく太陽系クルーズに参加したのだろうか?ここからの展望は、地球というスケールをもはや超えている。まるでどこか別の惑星に降り立ったかのような気分になる。ナミブ沙漠のある地点では映画『2001年宇宙の旅』のロケ地となったというが、なるほどである。その超地球的風景の場所は、地球の割れ目であるグレートリフトバレーと呼ばれ、はるか太古の昔にゴンドワナ大陸が分裂したとき溶岩が流れこんで固まって、そのときにできた黒いラインが今でも残っている。地球最古の沙漠にふさわしい歴史を有しているのだ。ここで突如、自然が呼び始めた。トイレなどあるわけもなく、仕方なくこの壮大な景観を見ながら用を足す。なかなか味わえない解放感…。同じ車に乗っている若者もつられて同じ行為に。「地球を感じるゼ〜」と叫びながら。
2001年奇想天外の旅<第33回>
「ナミブ沙漠でキャンプ」ツアーに使う車が埠頭で待機している。沙漠を走るとあって四駆、中には戦車のような奴もある。フォルクスワーゲンがやたら多いのは、旧ドイツ植民地だからだろうか。TOYOTA車も数台交じっているが、ドイツ車の量にはかなわない。我がバンには6人が乗り込む。ドライバーはフリッツ氏。名前からわかるようにドイツ系白人。40歳の苦みばしったいい男だが、沙漠を愛しすぎたためなのか、今だに独身だとか。そういえばこの車のメンバーは中学生から40一歩手前まで男性ばかりだが、何と全員が独身である。というわけで独身軍団は勇ましく1泊2日沙漠サバイバルツアーに出撃した。ウォルビスベイは港湾労働者のための街だという。平日(金曜)の日中だというのに人通りは少ない。銀行の前に数人の黒人がいるくらいで、ルーシ号乗船者の日本人が歩いている姿の方が多いくらいだ。自動車の数も少なく、いやに道路の広さばかりが印象に残る。10分もしないうちに街並は果て、でっかい砂丘が見えてくる。船から眺めるのとは、また違って壮観だ。道路と並行してナミビアの首府ウィントフックまで伸びる鉄路が走る。ここまでの列車は夜行列車だそうで、朝日を浴びる砂丘が見られるのだという。船もいいが、今度は鉄道で訪れたいものだ、と思う。
2001年奇想天外の旅<第32回>
オブザベーションデッキに上がってナミビアの大地を眺める。世界最古と言われるナミブ沙漠の一部である砂丘が、大西洋にせり出さんばかりの勢いである。ルーシ号は入港のため方向転換し、左舷には小さな街が現われた。これがウォルビスベイ。ナミビア有数の港町には、背の高い建物はない。双眼鏡で街をのぞいてみると「マーメイドホテル」という白い建物が見える。名前の割には貧相な感じがする。午後2時少し前に接岸。倉庫を背にして木彫り行商人が船の到着を待ち構えている。キリンの木彫りたちが首を長くして立っているところはモンバサそっくり。しかし白人の行商人がいたり、屋根を持つ店があるところはケニアとは大きな違いだ。おまけに白人オバサン商人は、着岸までずっとルーシの写真を撮っている。その後、船内で両替が。10米ドルが68ナミビアドル。南アのランドもそのまま通用する国で、しかもナミビアドルとランドは1:1のレートなのに、米ドルとの交換レートが南アと違うのは面白い(10米ドルが71ランドだった)。ちなみにウォルビスベイはナミビアが南アから独立(1990年)した後も南ア管理下にあり、94年2月27日にやっと返還されたという歴史を持つ。南アから独立は果たしたが、まだまだ南アの影響は大きい国なのだ。
2001年奇想天外の旅<第31回>
海霧がとても深く、船から見えるのはひたすら真っ白な世界。右舷にはアフリカ大陸が見えてもいいはずの地点を航行しているはずだが、何もわからない。午前7時8分の船内アナウンスで「イルカが見えます」と言っている。ところが見た人によると「あれはアザラシですよ」ということらしく、つい先刻には100頭ばかりも現われたというではないか!朝食の席で大西洋を眺めつつ食べていると、水面から黒い物体が顔を出したかと思うと、再び水中に沈む。それが2〜3頭。イルカにしては、あのドルフィンジャンプのような躍動感がなく、体がだるいぞといわんばかりズボッ、ボシャという感じの動き。どちらかというとあの「もぐらたたき」のモグラのよう。海モグラなのか?目をこらしてよくよく見ると、そいつらはアザラシであった。その後、霧は徐々に晴れてきて、強い日差しが照りつける。正午過ぎになると右舷に陸地がうっすら見え始めた。ランチをとりながら眺めていると、陸地の薄茶色が次第に濃くなってくる。ただし人家はなく、遠くに煙突が1〜2本立っているだけ。さすがに「人口密度が世界最少の国(1平方キロあたり1.5人)」らしい光景。再びアザラシたちが鈍いがユーモラスな海面ダンスを披露する。アザラシたちの歓迎を受けて、ルーシ号はアフリカ最後の訪問地ナミビアに近づくのであった。
2001年奇想天外の旅<第30回>
夕方の6時。3月のケープタウンは日が長い。テーブルマウンテンに見送られるように、ルーシ号はケープタウンを出港した。たった2日間の滞在は、ケニアの20日に比べると何だか物足りなく見えるかもしれない。だが、黒人ワイナリーでワインを飲み、テーブルマウンテンの頂点を極め、南アの「フィールド・オブ・ドリームス」を体験するなど、とても濃縮された2日間であった。アフリカの神に祝福あれ。大西洋に乗り出したあたりで、ルーシ号では新生南アの国歌「コシシケレリ・アフリカ」が大音量で流れ出す。荘厳な感じ。南アとのお別れにふさわしい。まもなく船はロベン島の真横を通過する。ここはかつて前大統領ネルソン・マンデラ氏など黒人の囚人が収容された別名「監獄島」だった。現在はユネスコによって世界遺産に登録されている。私事だが、この監獄島を「ゴルゴ13」という長寿スナイパーアクション劇画で知った。ガキの頃読んだ漫画の舞台が今まさに目の前にあるのが、何となく感慨深い。この島を訪問する時間はなかったが、日本に戻ったらもう一度ゴルゴ13を読もう。風は強まり、とても肌寒い。デッキに出ていた人も、船内アナウンスの夕食コールとともに一人一人と減っていく。それでもテーブルマウンテンは夕陽に照らされて、ルーシ号を暖かくいつまでもほほ笑みながら見送ってくれていた。
2001年奇想天外の旅<第29回>
プレイボール。フタを開けてみれば相手投手はコントロールが悪かった。しかも守備はザル。どうやら実力は同じくらいだゾ。あっという間に我がチーム5点先行。しかしこちらも似たようなもので、4点を返された。とにかく彼らの打球は速い。面白いことに猛練習してきたのに、MASにはルールをよく理解していない子もいる。三振したのに気付かなかったりして、なかなかダッグアウトに戻らないシーンも。初回の激しい攻防で試合は熱を帯びる。相手のキャッチャーはボールの判定に不服で、抗議する。しかし素直な性格らしく「ソーリー、アンパイア」とすぐに謝っていた。珍プレーが続出したこのゲームのなかで、最たるものが「車椅子代走」であろう。打者が打ったと同時に、車椅子に乗った男性を介護の若者が押して一塁へ全力疾走。何とセーフ。「一回これをやってみたかったんや」と、その男性も感無量。まるで甲子園でヒットを打った高校球児のようにはしゃいでいた。結局、3回で12対7と我がチームが勝利してしまった。最後にお互いのメンバーの名前を寄せ書きしたTシャツを交換し、我々は試合で使ったグラブやボールをMASに贈呈した。彼らは港まで一緒にバスに乗ってきた。「カタカナで僕の名前を書いて!」と幾人にもせがまれているうちに、ルーシ号が見えてきた。
2001年奇想天外の旅<第28回>
MSAの若者たちと一緒にバスに乗り、着いたところは見事なまでに立派なスタジアム。ブルーのシートが並ぶスタンドもあるし、ベンチじゃなくてダッグアウトもあるし、フェンスもあるし、左右両翼には打撃練習用のケージ…。なんとここはソフトボール専用球場。バスで隣合わせになった少年に聞いたところ、ケープタウンとその周辺ではソフトボールが流行っているそうだ。半信半疑でスタジアムまで来たが、選手にはグラブが行き渡っていて、アンパイア(審判)がついて、キャッチャーだけでなく彼にもレガースやプロテクターがある。とにかくすべてが本格的なのだ。こうなりゃこの試合に参加したルーシ号13人衆も燃えなければなるまい。チームを組んだのは当日で、そのメンバーの中には野球ちょっぴり経験者もいるにはいるが、あとは未経験者の女性に車椅子の男性に、今日出発のツアーに寝坊して参加できなかったからという若者に…と、まさに烏合の衆。対するMSAも男女混合チームだが、この日のために猛特訓を繰り返してきたときく。なにしろ黒い肌が、どことなく「オレたちは強いぜ」と言っているようで、このままでは試合の前に気持ちで負けてしまう。試合前の円陣で我がチームの合言葉は「試合に負けたら(次の寄港地)ナミビアには行けないぞ!」。こうやって自らを追いつめるしかない。
2001年奇想天外の旅<第27回>
この日の午後は、ケープタウンの若者たちとスポーツ対決。相手はMANNENBERG SPORTS ASSITANS(MSA)というNGOの若者たちだ。このNGO、貧困から生まれる「悪への道」をスポーツを通じた活動で閉ざしていこう、というのが目的で設立された。ちなみにケープタウン、そしてそれ以上にヨハネスブルグという南アの大都市は世界でも屈指の「デンジャラス・シティー」として名高い。ケープタウンは夕方5時になると、一気にゴーストタウン化する。どうして午後5時なのかというと、それがオフィスの終業時間であり、治安の悪化を恐れてさっさと皆帰宅してしまう時間帯だから、と聞いた。アパルトヘイトの撤廃は、皮肉にも都市の治安の悪化を招いてしまった。これまでは大都市への出入りを禁じられていた黒人層も、自由に都市へ流入できるようになった。とりわけアパルトヘイトで広がった貧富の差は埋めがたく、黒人の大多数は貧困のまま残されている。職を求めて都市に出てくるが、なかなか難しい。ついに食うに困って犯罪に走る…。これは現在の南アを悩ませる問題であるが、スポーツで才能を伸ばしたり、それに関する活動を広げて犯罪の芽を摘み取るためにMSAはできた。さて対戦種目は?南アといえばラグビー、サッカー、クリケット。でも、いずれも違う。それじゃあいったい…?
2001年奇想天外の旅<第26回>
ケープタウン2日目、テーブルマウンテンを眺めながら船内のレストランで朝食を取る。よくよく見れば、山には雲ひとつかかっていない。意を決して、埠頭にいたタクシーに飛び乗る。明るいのに人通りの少ないケープタウン中心街を抜け、20分ほどでケーブルカー乗り場に到着。そしてケーブルカーは5分で頂上に。ここは標高1000メートルを超えている。まるで列車でトンネルに入ったときのように耳がツーンとする。頂上のケーブルカー駅には、ネズミをやや巨大化させたようなハイラックスが、もそもそと動き回る。それにしてもテーブルマウンテンのテーブル部分は、ほんとうに平ら。屋根のてっぺんのようにとがっているわけではなく、その中央部からですら片側の喜望峰のある方角には青々としたテーブル湾が広がり、反対側にはケープタウン市街と双方が眺望できる。モンバサからここまで乗ってきたルーシ号も、昨晩フェスティバルが開かれたキャッスル・オブ・グッドホープ(喜望峰ならぬ喜望城:函館五稜郭のような格好をしている)もすべて一望できる。雲がかかっていないときに登るに限る、とはこういうことだったのか。何だかとても偉くなったかのような錯覚を持ったまま、再びケーブルカーで「下界」へ向かう。そのとき何と、この山を徒歩で登っている白人10人ほど確認。う〜ん、ご苦労なことだ。
2001年奇想天外の旅<第25回>
ニュー・ビギニングスのラベルには、微笑む2人の黒人が。このワイナリーで実際に働いている兄弟のスナップショットだという。ちなみにトラクターで農園を一周してみたが、労働者にはほとんど出会わなかった。船のケープタウン入港が20日遅れ、収穫の時期が終わったあとの到着となったため、働く人々は休暇に入ってしまったからだ。それにしても貧乏性ニセソムリエが「うまい!もう一杯」と絶賛するのだから、やはりいいものなのだろうか。それとも当てにならないものなのか。それは実際に飲んでみなければ判断できない。「これはピースボート・ワインでもあります」とビクター氏は言った。というのも2年前にこの農園を訪れた参加者が摘んだブドウで醸造しているからだ。黒人労働者とピースボート参加者が汗水たらして摘んだその結晶を、2年後にきた者が顔を真っ赤にしながら「うまいうまい」と飲んでしまう。まあ、おいしいとこどり、である。おまけにビクター氏からこのニュー・ビギニングスの赤2本をお土産だとプレゼントしてもらった。ビクター氏や黒人労働者、そして2年前のピースボート参加者に感謝感謝。そしてアパルトヘイトを廃止し、白人と黒人が一緒に国造りを始めた南ア(そういう意味でニュー・ビギニングス「新しい始まり」というネーミングは実にキャッチーだ)に祝福の乾杯!チン。
2001年奇想天外の旅<第24回>
赤、ロゼ、そして白。ワインの入ったグラスを白い紙ですかして、色の濃淡を見る。味と薫りをより出すために、グラスをローリングさせるように振ってみる。「薫りを嗅いだら、それが何の薫りに似ているか言ってみてください」とビクター氏。これがなかなか難しい。1本はなんだか小学校の時に使っていた色着き消しゴムのにおいがしたし、あるものは高級石鹸の薫りがした。本来、ワインテイスティングとは口に含んだワインを、用意された壷のようなものに捨てなければならないのだが、さすがに「貧乏性ニセソムリエ」にそれはなかなか至難の業。せっかくだから、とグイッ。飲んでしまう。おかげで最後の6本目のときにはなかなか天国にも昇れそうないい気分になりつつあった。それでも、どれが自分にあったワインかどうかぐらいは判別できる。赤1本と白2本にお気にいり印を付けた。実はそのうちの赤と白1本づつが、初の黒人ワイナリーが産んだブランド『ニュー・ビギニングス』であった。
2001年奇想天外の旅<第23回>
照りつける太陽の光線はジリジリと肌を焼く。しかしトラクターを通り抜ける風は爽やかで、心地よい。農園を取り巻く丘の風景はアフリカというよりも欧州に近い。もしここで写真を撮って現像して、日本の友人たちに「フランスの田舎へ行ってきたぜ」と言ってもだれも疑わないだろう。ビクター氏が農園のブドウの味見をさせてくれる。これがとてつもなくうまい。ランチタイムが目前に迫っていたが、あやうくブドウで腹をふくらませてしまうほど、それは止められない止まらないほどうまい。ランチ後、ワイン貯蔵室を見学。かすかに漂ってくるブドウの薫りに、はやくも心地よい陶酔感を覚える。早く飲みたいな〜。そんな邪心が、熱心に説明するビクター氏の説明から耳を遠ざけようとしきりに妨害を試みる。そしていよいよ…。待っていました、この瞬間!ワインテイスティングの時間です。テーブルの上には数本のワインボトルが。ビクター氏自らが一流ソムリエも真っ青の手つきでワインを注いでくれる。さあ、戦闘(?)開始っ!!
2001年奇想天外の旅<第22回>
ケープタウンに到着するや否や、ここで果たすべき宿願を叶えるべくバスに乗る。その宿願とは「美味なる南アワインを本場のワイナリーでたんのうする」である。もはやフランスだけがワインのメッカではないことぐらいなら知っているのだ。ケープタウンから東へ1時間ほどで到着したのはネルソンズ・クリークというワイナリーだ。しかもただのワイナリーではない。かつてこの国で布かれていたアパルトヘイト(人種隔離政策)のため、「オーナーは白人、こき使われるのは黒人やカラード(混血児)」というのが当たり前の図式になっていた。しかしネルソンズ・クリークには南ア共和国史上初の黒人所有のワイナリーがある。大げさに言えば、南アの後世にまで名を残すであろうワイナリーだ。白人オーナーのネルソン氏が「国内のワインコンテストで賞をとったら、農園の一部は黒人労働者にゆだねよう」と約束したところ、何とここで造られたワインは金賞を獲得し、ここに黒人ワイナリーの誕生とあいなったのだ。案内してくれるのは共同経営者のひとり、ビクター氏。まずはトラクターに揺られながら広い農園を一回りだ。
2001年奇想天外の旅<第21回>
午前6時10分、同室の誰かの目覚まし時計がけたたましく鳴り響く。その勢いで飛び起き、プールデッキ経由でオブザベーションデッキに駆け上がる。夜中に雨でも降ったのか、木の甲板は水で湿っており、空はどんよりと暗い。右舷側デッキに出て、仰天した。目の前にはすでに、富士山を左右両側にギューッと横伸ばししたようなテーブルマウンテンの姿、そしてその麓にはケープタウンの街並が見えているではないか。オブザベーションデッキには、テーブルマウンテンが徐々に近づいてくるのを見よう、という人々でいっぱいだった。ところがすでに船は沖待ちで停止している。船の到着が早すぎたのだ。誰もがやや拍子抜けの様子。しかし6時45分頃、雲の上から太陽が顔を出すと、テーブルマウンテンは朝日の光を浴びて輝き始める。その真っ平らな頂には、まるでテーブルクロスのごとく白雲がかかっている。どことなく神々しい光景に、「ああ、船で来てよかった」と思うとともに、モンバサで20日間のお預けを食らわされ、「ひょっとするとケープタウンには行けないかも」とも感じていただけに、その喜びも一層なのであった。
2001年奇想天外の旅<第20回>
ダーバン沖を通過した翌日も、南アの大地が続いている。海の色は午後あたり以後、コバルトブルーから濃緑に変わっている。外気温は摂氏20度。モンバサやモザンビーク沖の熱気がウソのようだ。日が沈めば寒くなり、プールデッキにある屋台「まんだら屋」では氷り入りの酎ハイよりも熱燗の日本酒の方が売れ行きがいい。そんな晩はTシャツ1枚で過ごせるわけもなく、トレーナーやジャージをトランクの奥から引っ張り出す。午後11時過ぎ、船尾のやや後方で光が明滅する。灯台だ。実はあれこそがアフリカ大陸最南端のアガラス岬に立つ灯台の光なのだ。屋台で飲んで、くだを巻いているうちにインド洋を越えて、大西洋に入っているではないか。シンガポール出港以来1ヵ月以上も眺めてきたインド洋と、ついにおさらばである。そしてルーシ号は真夜中のうちに喜望峰を迂回し、いよいよケープタウンに入るのであった…。
2001年奇想天外の旅<第19回>
この日はいつもよりちょっと早起きしてオブザベーションデッキに上がる。右舷には南ア第三の都市ダーバンの街並が広がっている。ビーチがあり、その背後にはホテル風の高層ビルがしのぎを削るように林立する。「えっ、もうコパカバーナに着いたの?」。そう勘違いするほど、海から見るこの都市の光景はリオ・デ・ジャネイロに似ていた。実際、ダーバンは世界的にも有名なリゾートビーチであるコパカバーナを少し小さくしたかのような顔を持っている。ダーバンを通り過ぎると、次に右手に広がるのは緑の絨毯を広げたかのようななだらかな丘陵。そしてあちこちに瀟洒な建物が並ぶ白い砂浜。モザンビークの海浜光景とは全く違う。気候も爽やかで涼しいくらい。建物の屋根の色や気候は、アフリカというよりも地中海の初夏に近い。と、地中海リゾート気分に浸ろうとすると隣にいた人が「熱海や伊豆、房総半島っぽい風景っすね」と言ったために、突如、頭のなかでは伊東にある高名なホテルCMソングが流れてしまったのであった!
2001年奇想天外の旅<第18回>
モンバサを出てから2日目の正午、船の進行方向右手に陸地がうっすらと見えてくる。オブザベーションデッキに上がって、双眼鏡で望遠。島だと思っている人もいたが、しっかりと陸地は南に向かって伸びている。海岸線の後方ところどころに背の低い山がぽこぽこと立っていて、それが島に見えるのだ。それが1時間もすると、肉眼でとらえられるほど船は近づいていた。真っ白な砂浜が続き、遠くから見ると松のように見える木々が並んで生えている。どことなく美保の松原っぽい和風に近い風景だ。携帯ラジオからはアナウンサーが機関銃の連射ようにしゃべりまくっている。その中から何とか「アテ・アマニャン」、「ジナーダ」という単語が聞き取れる。ポルトガル語。ということは、もうモザンビークの沖にいるのか。あらためて初めて目にするモザンビークの陸地を眺める。人家は全く見当らない。ただ赤と白のペンキを塗られた灯台がひとつ見えるだけである。灼熱の太陽が大地と海、そして船を焦がし、夕方になっても湿気は高いままだ。ところが翌日にはモザンビークの姿はどこにもなくなっていた。まるで蜃気楼のようなモザンビーク…。
2001年奇想天外の旅<第17回>
「起きろ、コラッ!」。暗やみに怒鳴り声が。しかも何度も連呼で。それがだんだん大きくなる。夢から一気にうつつに呼び戻され、何が何だかよくわからない。しかし怒鳴り声はまもなく止んだ。続いたのは暗やみと静寂、そしていびき。ああ、そうだった。オリビア号ではひとり部屋を使っていたが、ルーシ号では4人部屋になったんだっけ。怒鳴り声は同室者の目覚まし時計からのものだった。まだ梱包されていない段ボール箱が幾重にも積み上げられたキャビンは、キャビンというよりも倉庫といった方がいい。オリビア号に比べて小振りなルーシ号だから、まあ仕方がない。キャビンが狭くなった分だけ、乗船者がラウンジなどパブリックスペースに出てくるようになって、オリビア号のクルーズと参加しているメンバーはほとんど変わらないのに、なんだか数倍も活気があるように感じられる。ケニアの20日間の体験が、皆の心を「ポレポレ、ハクナマタータ!」と解放してしまったのに違いない。
2001年奇想天外の旅<第16回>
午後9時。ルーシ号のエンジンが奏でる小刻みな振動が、体にブルブルと伝わってくる。これまでの数々の船旅をこなしてきたが、エンジン音がかくもうれしく聞こえたことがかつてあっただろうか!しかしちょっとした悲しみも伴っていた。オリビア号がどんどん遠ざかっていく。船の出航というのは普通、埠頭とデッキの間で五色のテープが舞う風景を頭に思い浮べる。ところが船の引っ越しという珍事に続いて、またまた滅多に見られない光景が…。オリビア号の船尾にあるデッキには、オリビア号に残るクルーやケニアで下船する乗船者・スタッフなどであふれている。そしてルーシの船尾にあるプールデッキにいるこれからも旅を続ける人々とテープで結ばれている。そのテープも徐々にぶつぶつと切れていく。そしてオリビア号の灯りが見えなくなり、インド洋に20日ぶりに乗り出すと船はぐらぐら揺れだした。この揺れが、船の感触なのだ。忘れかけていた感触が徐々によみがえってくる。ルーシ号の屋上デッキことオブザベーションデッキに上がると、アフリカ大陸の頼りなげなともしびが遠ざかりつつある。さらば、ケニア!そしてオリビア号!!
2001年奇想天外の旅<第15回>
いよいよモンバサそしてオリビア号とお別れの日がやってきた。朝食を終えると、オリビアの船尾と、まるでお尻とお尻をくっつけるように停泊していたルーシ号まで散歩する。前日までにオリビア号にあった備品の大半はルーシに移動していた。それもクルーだけではなく、乗船者のほとんどが協力して運んだのだ。モンバサ滞在も長くなり、そろそろ飽きてきたぞ、という時にふってわいた客船から客船へのお引っ越しという史上まれにみる珍事。老若男女・人種・国境・宗教の別なく、大勢の人々がコンピューターからスプーンやフォークといった食器にいたる重いものから軽いものまで、文句も言わず嬉々とした表情で二つの船を何度も往復していた。しかし船底深くにあった食材の数々は、まだオリビアに。モンバサの埠頭には「秋田米」や「ふくしま米」の袋がいくつも並べられている。これらもいずれはどこかの海の上で我々のお腹のなかに行ってしまうのかと思うと、米袋に向かって「君たちも一緒にきてくれるのかい、ご苦労さま」とついつい声をかけてみたりする。そしてこの2時間後、米袋たちに先んじて、シンガポールからの住みかであったオリビア号を離れてルーシに移る。
2001年奇想天外の旅<第14回>
あちこちにテントがあり、色とりどりの民族衣装に身を包んだ女性や子供、そして男たちが地べたに寝そべったりしている。その数も、100人は軽く超えているであろう。ここで、キシニ島に向かうダウ船に乗っていたときに、黒人クルーから聞いた話がまざまざとよみがえってきたのだ。キシニ島のすぐ南はもうタンザニア領で、その山並みが見える。クルーは言った。「ケニアは平和だけど、タンザニアからは難民がいっぱい来ます。ザンジバルで紛争があったためです。おそらくあなたも難民がいっぱいいる場所を見ることになるでしょう」。そこでunhcrの意味を思い出した。目の前にいる彼らはタンザニアからの難民であった。金網の向こうに送迎バスが待っており、そこへ抜けた。よく考えてみると、ダウ船による優雅なクルージングの終着点は、何と難民キャンプだったのである。後にナイロビの英語放送で聴いたが、最近は毎日のようにケニアの海岸部に、タンザニアからの難民がたどりついているのだという。詳細は分からないが、サファリや白砂ビーチ、そしてダウ船クルーズといった優雅な世界とは全く別の顔を持つアフリカもあるのだ。しかもそれが優雅クルーズの終点に待ちかまえていたのが、あくまでも偶然の成り行きではあったが、どことなく示唆的にも思われるのであった。そんなに様々な顔を見せてくれたケニアも、そろそろお別れ。ダウ船クルーズから戻ってくると、新しい船がキリンディニ港に到着していたのを見たとき、ほっとした反面、一抹の寂しさをも同時に覚えたのであった。
2001年奇想天外の旅<第13回>
ナイロビではドクター神戸の家を訪問したりして、楽しい3日間を過ごし、またまた湿気ムンムンのモンバサに戻る。モンバサ出港までまだ日時があったので、アラブ商人がインド洋交易に使用した三角帆のダウ船に乗ってみることに。モンバサからバスに揺られること1時間、シモニという町に着く。ここでダウ船に乗ってインド洋に乗り出す。ここ2週間以上、エンジンの止まったまま海上に浮かぶ船にばかり乗っていたので、波を切る音が心地よく響く。やっぱり船は海の上を動いていないとね。ちなみに現在のダウ船は、かつてのように帆が風を受けて進むのはなく、エンジンで動いている。だからダウ船独特の三角帆は閉じられたままである。聞いた話では、ダウ船造船のメッカ・ラム島でも今やダウ船を作ることが出来る職人は2名しか存命ではないとか。モーターダウ船に乗って、キシニ島という無人島の白砂ビーチで寝そべり、ワシニ島でカニをほおばる。何となくヴァスコ・ダ・ガマ以前のインド洋航海の気分を味わって、幸せ気分で終着点の埠頭へと進む。そこには大きなドラム缶のような黒い貯蔵庫があって、白抜き字でunhcrとあった。インド洋に容赦なく降り注ぐ太陽光線のため軽い日射病にかかっていた頭で、その5文字が意味することがとっさに出ては来なかった。桟橋を渡りきり、送迎バスが待つ場所へ向かうとき、そこで見たものは…。
2001年奇想天外の旅<第12回>
ケニアの寝台特急はボロい。コンパートメントのなかは蒸し暑く、ブーンと大きな音を立てる扇風機も余り効き目がない。だから窓を開ける。あまり開け放しておくと、外から荷物を盗られる可能性があるので注意しなさい。それから眠るときは必ずコンパートメントのカギを閉めなさい。そんな忠告が車掌から行われる。それにしても何とかならないのか、この揺れは!ガタゴトがたごと。時速50キロ程度の自動車にも追い抜かれる列車のくせに、揺れだけは難破寸前の船(乗ったことはないが…)クラス。食堂車でスープを飲もうとしたら、激しい揺れでスープの半分が床に飛び散った。それにしても食堂車の中にモイ現ケニア大統領の顔写真が飾られているのは、10年前にピョンヤンから北京まで乗った北朝鮮製の国際列車を思い出させる。その列車でも食堂車に、その国の人々が「首領様」と崇め奉る指導者の肖像画が威風堂々と飾られていた。モイ大統領の写真は現在のものではなく、もっと若かった男前の頃のを使っているそうで、それは北朝鮮のケースと全く同じなのだ。まあ、それはいい。ときおり、開け放した窓の外から子どもたちの声が聞こえる。しかし暗闇に包まれている上に、肌も黒いからますます分からない。23時には眠くなり、そのままベッドに潜り込む。ところが数分後、見回りに来た車掌に「コラ!カギを閉めろと言っただろ。荷物も床に置くな」と叱られ、重いまぶたを閉じたまま「すんません、すんんません」と言ってカギを閉めるのであった。
2001年奇想天外の旅<第11回>
まず行ったのがマリンディ。15世紀初頭、中国の明朝皇帝が派遣した艦隊がキリンを連れて帰り、代わりにマリファナを置いていき、そのおよそ100年後にポルトガルからヴァスコ・ダ・ガマ艦隊が来航し、インドへ渡っていったという。歴史愛好家を自認する者なら、一度は行ってみたいかな、と思う町である。モンバサから車で2時間ぐらいの場所にあるということを知り、1人で訪れるのもよかったが、この喜びを何人かと分かち合おうと思い立って、ツアーを組んだところ50人を超える参加者が集まってしまった。しまった、と思ったが仕方がない。バス2台連ねて1泊2日のトリップを楽しんだのあった。マリンディから戻った次の3日間は、モンバサのオールド・タウンにいりびたり。港のゲートからマタトゥ(ケニアの乗り合いバン)に乗るため10シリング握りしめて飛び乗る。オールド・タウンではマンチェスター・ユナイテッド(イングランドの最強サッカークラブチーム)の選手ポスターを壁全面に貼りまくった店の兄貴に、「髪の毛切らんか?」とすすめられる。滞在も長引いたし、デヴィッド・ベッカムのように坊主にしてもらうのもいいかな、と思ったが、結局、その後機会が無くてベッカムにはなれなかった…。そして次の4日間はナイロビへ。19時発の寝台特急に乗って、ポレポレとケニアの首府を目指すのであった。
2001年奇想天外の旅<第10回>
本来ならツァボ国立公園の1日サファリ体験をもってモンバサの滞在は終わるはずであった。しかしあくる日も、そのまた次の日も我がキャビンの窓から見えるのはキリンディニ港13番埠頭の倉庫群、そしてゾウやキリンの巨大木彫りの横で眠る行商人である。東京から我々を運んできてくれた船が、アフリカ大陸に到達したとたん、ギブアップしてしまったのだ。そして替わりの船がやってくるまで、さらに20日近くをケニアで暮らさなければいけない!これまでの34年の短くも長くもない平凡な人生の中で、豪華客船のクルージング、中くらいレベルの客船旅、ゴージャスなフェリーから船底で眠った中国のオンボロフェリー旅行など船を使った旅の経験だけは豊富だと思っていたが、こんなことは一度もない。あってしかるべき事態なのだ。しかし起きてしまったことは、もういくらジタバタしてもどーにもなるものでもない。巨大キリンに見つめられて眠る木彫り商人の寝相を、窓越しにじっと見つめつつ考えた。そして結論を出した。「もともと21世紀最初の海外旅行はアフリカ大陸を楽しむつもりだったのだ。これはもっともっとアフリカを満喫しなさいという天(何の天かは深く考えなかった)の思し召しだから、じっくり付き合ってやろう」。この素晴らしいアイディアにたどりつくまでかかった時間は60秒ちょっとだった。
2001年奇想天外の旅<第9回>
ドライバーのパパ・ムシリはパフパフと車のクラクションを鳴らし、何事か叫んで手をたたく。すると突進態勢に入りかけていた象はグルリと向きを変えると、別の方角へドスンドスンと去っていった。これぞパパ・ムシリの象撃退法である。「以前、象の攻撃にあって車1台をダメにしちゃったけど、ハクナマタータ(問題ない)だよ」。ハクナマタータ。ケニアでの滞在中、ポレポレ(ゆっくりゆっくり)に匹敵する頻度で登場するスワヒリ語である。午前中だけでこんなにヴァラエティに富んだ野生動物たちと出会えて、もうお腹いっぱいだ。しかし、雌ライオンが道ばたで昼寝していたのには驚いた。10台以上の車が彼女の近くに停車し、一斉に彼女目がけてシャッターが切られる。「うっさいわねー。昼寝中よ」という顔をしながらも、満腹なのか、ウォーと吼えることすらしない。百獣の王もこれではただのナマケモノ。
2001年奇想天外の旅<第8回>
ツァボ国立公園に行く。言わずと知れたサファリである。四国がすっぽり入ってしまうほどの広大なサファリだとか。なのにゲームドライブは1日だけ。高松から高知の間くらい走るんだから、野生動物に遭遇する機会もそんなにはあるまい、などとタカをくくっていたのがバカだった。出るわ出るわ、赤土色のアフリカ象が、シマウマが、インパラが…。カバは湖でプカプカ浮いて、何だか見ている方がバカになりそうなくらいまったりとした雰囲気をかもしだす。バブーン(ヒヒ)はキャンピングカーの前に出てきて食べ物をねだる。アフリカ象が水浴びをしている近くで車を止めた。バシャッ!その巨体に長い鼻で水をかける音がこちらにまでズッシリと響いてくる。ところが我々の存在が気に障ったのか、象がこちらめがけて突進してくる構えを見せる。危機一髪!サファリに命を散らすのか?
2001年奇想天外の旅<第7回>
やたらと曲がりくねった小道。まるで巨大迷路だ。そこを歩くのは黒いヴェールをまとったアラブの女に、白い帽子と衣服をすっぽりと頭からかぶったアラブ男性。かと思えば、けばけばしい原色のサリーを着るインド顔の女性。そして笑うとやたらに白い歯が眩しい、肌がブラックなアフリカン…。おいおい、ここはどこなんだ。流れてくる音楽はアラブだったりインド風だったり。そうそうここはアラブとアフリカのゴッタ煮つまりスワヒリ・ワールドだったのだ。とにかく異国情緒たっぷりで目にするものすべてが珍しい。そしてどのおみやげ物屋もしつこく声をかけてくる。すれ違う男達は「ジャパン、クマモト!」と叫ぶ。あまりのすさまじいクマモト攻撃の前にヘトヘトに疲れて、タクシーで船に戻る。そして、ビールを浴びるほど飲んで、酔って数人と「六甲おろしにさっああそおおとー」と阪神タイガースの歌を熱唱。そのドラ声はキリンディ二港の闇にこだました。いったいここはどこなんだ?
2001年奇想天外の旅<第6回>
フォート・ジーザスの前にタクシーが止まると、「俺がこのなかを案内してやろう」という怪しげな輩がどこからともなく寄ってくる。そのなかのひとりに試しに案内してもらう。さすがガイドを名乗るだけあって、砦の建設年代が1593年(なぜか数字の発音だけはやたらと威勢がいい)など正確かつスラスラと出てくる。この周辺で出土した中国産の陶磁器や、難破したポルトガル船から引き揚げられた文物など興味深い物が多い。展示品のなかになぜか19世紀日本の伊万里焼(イマールと表示されている)がある。ガイドに「なんじゃこりゃ?」と尋ねたが、彼は「イマールイマール」と笑うだけでロクな説明がない。要するにわからないのだ(のちに聞いたところでは日本製とは真っ赤なウソらしい)。次に訪れたのは、モンバサのオールド・タウン。これがまたよく分からん所である。
2001年奇想天外の旅<第5回>
オリビア号と埠頭を結ぶギャングウェイを下りると、待っていたのは雄大なアフリカの大陸ではなく、黒い肌を持つ黒山の人だかりであった。「タクシー、タクシー」、「木彫り安いヨ、ゾウ、ライオン、サイにマサイもあるゼ」という燃える商魂的かけ声に混じって、「オオサカ、トーキョー、クマモト!」となかばやけくそな叫喚が聞こえる。かくもアフリカ大陸との最初の出会いは支離滅裂なものとなった。その混乱をかき分けるように、おそらく数十年前まではロンドンの街並みの中をジェントルマン的に走っていたはずの英国型タクシーを往復20米ドルでチャーターし、16世紀末にポルトガル人が建てたフォート・ジーザスという砦に向かう。この歴史的遺産でインド洋を眺め、これまでの航海に思いを馳せようと思ったのだが、そうは問屋がおろさないのがアフリカである…。
2001年奇想天外の旅<第4回>
セイシェル・ラスタコンビのアシェル&ダニーは、まさに「海の上のレゲエ・ボーイズ」となって3日3晩アフリカンミュージックを奏でていた。彼らはジャンベを叩いているときが、人生の至福の時であったのであろう。しかしそれはまさに「アフリカへの水先案内人」の名にふさわしいもので、乗船者はいつしか彼らの演奏に手足だけでなく、からだ全体でアフリカのリズムを刻んでいった。そしてマヘ島を出てから4日目の昼、真っ白な砂浜が船の左手に現れたのだ。「アアアアアアア、アフリカたいりく!」。アシェル&ダニーのリズムにすっかり参っていたこともあり、なんだかラップ調で目指す大陸の名を叫ぶ。オリビア号はケニアきっての港町モンバサに向け、大陸と島にはさまれて、まるで川のようになっている水路を進む。船が接岸したキリンディニ港13番埠頭ではマサイ族の男女がからだを小刻みに、上下させて歓迎のダンスを踊る。その背後ではキリンやゾウ、サイが空中を飛んでいる。と思ったら、肌の黒い男たちが大きな木彫りの動物たちに隠れるようにして、それらを船の前まで運ぶと地面に並べ、オリビア号の乗客が下りてくるのを今や遅しと待ちかまえる。
2001年奇想天外の旅<第3回>
そのセシルワ2人組は、ドレッドヘアーにラスタカラーをあしらった帽子を乗せ、原色をふんだんにちりばめたド派手な衣装に身を包んでいる。そんなドレッド野郎が町中で知人と出会った際に、自分の拳と相手の拳をガツンとぶつけた。それを見た瞬間、思わず「ヤーマン!」と口走ってしまった。数年前に訪れたジャマイカの首都キングストンのトレンチタウンを思い出したのだ。アシェル&ダニーという、このいかにも妖しげな2人組に「ボーバロン・コミュニティセンター」まで連れて行かれる。ここでわかったのは、彼らが単なるレゲエボーイズではなく、立派なアフリカンミュージシャンだということだった。2人組の刻むジャンベ(太鼓)のリズムとビートは、まだ見ぬアフリカ大陸のワイルドな大地をまざまざとよみがえらせてくれたのだ。アフリカ系とおぼしき若い女性たちの踊りも、お尻が別の生き物のようにぐるんぐるんと回転しているのには、ただただ驚くばかりである。そして踊りと演奏が終わるとアシェル&ダニーは山ほど楽器を抱えて、そのままオリビア号に乗り込んでいったのであった…。
2001年奇想天外の旅<第2回>
「セイシェルってアフリカなの?」。このクルーズに合流する直前、友人のほとんどに聞かれた。かく言う自分もこの前までセイシェルはインドのすぐそばに浮かんでいると思っていた。しかしこうして7日間もかけてインド洋を漂うことで、なるほど少なくともアジアではないのだな、と納得。それにしても「セイシェル=美しいビーチが広がるリゾート」というイメージがあったのに、目の前に広がる光景は雨、雨、雨、どしゃぶりの大雨に煙るヴィクトリアの街並。タマネギのような屋根を持つモスクがあったり、けばけばしい配色と装飾のヒンドゥー教寺院があったり、グリーンを基調としたクレオール様式の建物に、中国正月を祝う商店。そしてロンドンのビッグベンを模したというが、どう見ても似てもにつかない銀ピカの時計塔。首都とは言うけれど、1時間もあれば一周できてしまいそうな、ちっこい街。通りを行き交う人々の肌や顔つきも、真っ黒なのもいれば褐色、インド顔、真っ白と多種多様。ここはインド洋に浮かぶ多民族テーマパークなのか?しかし、この直後に出会ったセシルワ(セイシェルっ子)には、とにかくびっくりさせられることになる…。
2001年奇想天外の旅<第1回>
新しい月を迎えた朝。惰眠から目覚めると、そこは南半球だった…。シンガポールからこのオリビア号上の人ととなり、インド洋に乗り出してから6日目。マラッカ海峡でラジオから流れるコーランを聴き、モルディヴ沖では遙か彼方の珊瑚礁に目を凝らしたりして時間をつぶしてきたが、いよいよ目指す大陸は近い!思えば「21世紀最初の海外旅行はアフリカに行くもんね」と、友人との茶飲み話の席で突如口走ってから、まだ2ヶ月足らず。しかしまさに今、確実に、一歩一歩、巨大な南方大陸に向かっているのだ。ケニアの草原でライオンと遭遇し、南アのワインを心ゆくまで味わい、ナミビアの砂漠に抱かれて眠る。こんなワイルドで奇想天外な旅の舞台としてアフリカ大陸以外に考えられるだろうか、いやない。そして2月3日、オリビア号の行く手に島影が現れた。セイシェルのマヘ島。この航海ではアフリカの玄関口なのである。一見、小笠原の父島のようにも見えるこの島から、2001年奇想天外の旅が始まった。
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