エリトリア日記
「エリトリア日記」Vol.9 10月11日(木)(by 大場寿人)
先週はエリトリアを離れ飛行機でケニアに飛び、そこから地球一周航行中のピースボートに乗り込みエリトリアのマッサワ港まで約一週間の船旅をしてきました。今回はその旅で感じたことを書いてみたいと思います。

 ピースボートはケニアのモンバサ港に寄港していたのですが、そのモンバサに向かう途中、ケニアの首都ナイロビでトランジットのため一泊しました。ナイロビは、カイロ、ヨハネスブルクに継ぐアフリカ第3の都市だそうで、道路も整備されていれば高層ビルも立ち並ぶ発展した街でした。エリトリアだけを見てこれがアフリカだと思っていた僕は、そのあまりの近代的な街並みに衝撃を受けました。省庁や裁判所の建物も立派なもので、大学の本屋にも本が揃っており法律書のみでも4つくらいの棚いっぱいに並んでいました。これと比較してしまうと、アスマラの裁判所やアスマラ大学がいかに設備的に貧しいものであるかを痛感せずにはいられませんでした。エリトリアがアフリカ最貧国のひとつであるという事実も、このナイロビの街並みを見てはじめて実感することができました。
 
しかし、翌日、モンバサに寄港しているピースボートに乗っていたケニアの青年海外協力隊員の方に話を聞くと、発展した街並みに隠れたケニアの抱える大きな問題点を知ることができたのです。ケニアは1964年にイギリスから独立し、まずは初代大統領のケニアッタ氏の下で国造りを行いました。この時期はケニア人によるケニア人のための国を造るという理想をもっていました。しかし、当時ケニア国内にいたイギリス人の資本家達が彼らの資本をケニア人の富豪たちへ売り渡しケニアを出て行ったことにより、国造りの出発点において国内の主要産業は全て一部のケニア人の富豪が独占する形になったのです。このときに生じた貧富の差が未だに解消されず、むしろ拡大してきてしまったために現在では深刻な貧富の差が存在するのです。
また、2代目の大統領で現職のモイ政権になってからは、外国からの援助をできるだけたくさんもらうという方針で国造りを行いました。一時はアフリカの優等生と呼ばれる程アメリカに従順に従いそこからの援助をたくさん受けていたというのです。しかし、このために国内では、お金は外国からもらうものという意識が強くなるとともに、援助物資が溢れることで国内の産業が育たないという状況に陥ってしまいました。このため、現在国内産業は殆ど育っておらず、大学を卒業しても殆どの者が就職することができないという状況にあるというのです。また、初代大統領ケニアッタ氏の属するカレンジン族と、現大統領モイ氏の属するキクユ族との間の民族的対立は根深く続いています。さらにモンバサなどの海岸地域に住むスワヒリ族は、アラブやインドからの文化的・経済的影響が強く、内地に住むカレンジンやキクユとの対立が強いとのことです。

 このようにケニアは、援助漬け、貧富の差、民族的対立というようなまさにエリトリアがその国造りにおいて特に意識している問題をまともに抱えている国のようです。エリトリアは、自分たちはアフリカで一番若い国であり今は貧しさ以外何もない。しかし一番若いということは他の国々の失敗を見て国造りを行うことができるんだ、という自負を持っている国です。そして他のアフリカの国々を見て、援助に依存しない持続可能な発展をテーマに国造りを行っています。また国民全体の発展や民族間の調和といった問題にも積極的に取り組んでいます。ナイロビとアスマラのその街並みだけを比べたら、かたや経済発展した国であり、かたやアフリカの最貧国という構図しか見えてきません。しかし、目を将来に向けた途端そのイメージは逆転するのです。

 目の前の経済発展に目を眩ますことなく、しっかり先を見据えた持続可能な発展を目指すエリトリア。ケニアに来てそのエリトリアの魅力を今一度感じることができました。そういえば、ケニアの通貨シリングにはその全てに大統領の顔が描かれています。他方、エリトリアの通貨ナクファにはその全ての紙幣に庶民の顔が描かれています。しかも9つの民族全ての人々が描かれているのです。このあたりからも両国における国造りの意識の違いを感じざるを得ませんでした。

 10月4日午後9時。いよいよ船がモンバサ港を出港します。これから船は北上しソマリアの沿岸を進みアフリカの角を越え紅海に入り、イエメンやサウジアラビアといった中近東の国々を眺めつつエリトリアのマッサワ港へと向かいます。そして僕は船上のエリトリア宣教師よろしくエリトリア企画に没頭することになるのです。船上で、久しぶりに日本食を食べ久しぶりに日本人の集団と交流し、久しぶりに日本語で思う存分自分の気持ちを表現することができるのです。

 10月6日午後8時半、今日はエリトリアの企画もなくのんびり他の企画に出席しようと思い、アメリカテロ関連の企画「報復攻撃カウントダウン」なる不謹慎な名の企画に行ってみました。アメリカの報復攻撃に反対し平和を考えようといった趣旨の企画だったのだと思います。しかし壇上に現れた吉岡さん(ピースボートの共同代表の方で元ジャーナリスト)の口から発せられた言葉は、「今から45分前、とうとうアメリカによるアフガニスタンへの報復攻撃が始まってしまった。」というものでした。会場では急遽、企画が変更されプロジェクターによるCNN上映会が始まりました。その後、船内の雰囲気はみるみるうちに暗く沈んだものへと変化していったのです。一時はエリトリアどころではないといった雰囲気も漂うし、さらにあろうことかマッサワ寄港も難しいかもしれないなどという話も飛び出す次第で、優雅な船旅どころではなくなってしまいました。
 とはいえ、翌日には船内の雰囲気も回復し、この戦争に対し我々がとるべき行動は何か、という前向きな雰囲気になっていきました。その中で僕も、エリトリア企画の準備を進める傍ら、眠い目をこすりながら平和とは何かまた平和活動の持つ意味は何かといったことを吉岡さんと刺しで議論するなど、いつになく充実した時間を過ごすことができました。

 また、モンバサからマッサワまで海外ゲストとして乗船しているエリトリアのアスマロン教授による講義の中で、興味深いお話を聞くことができました。それは、西洋における正義というものは、勝者と敗者の二項対立によるものだが、アフリカの伝統的正義感ではそれは二項対立なものではなく両当事者の調和や協調といったところにある、というものでした。これはアフリカの伝統では、勝ち負けをはっきりさせる訴訟よりも、互いが歩み寄る形の和解といった紛争解決手段の方が馴染む、という趣旨の話でした。しかし、今回のテロ及びそれに対する報復攻撃といった一連の流れを見ていると、勝者と敗者の二項対立による正義感というものが次々に無為な争いを生じさせているのではないかと思ったのです。「正義は勝つ」という言葉にあるように正義は勝つものでなければならないという考えがある限り戦争はなくならないであろうと。こういった話を聞くと、僕らがエリトリアなどのアフリカの国々から学ぶべきことはまだまだたくさんあるのではないかと思うのです。

 近年、裁判外で当事者の話し合いによって紛争を解決させるなどの紛争解決方法は日本でも見直されてきています。また刑事手続においても、犯人の処罰という二項対立的な発想ではなく、被害者と加害者との間の平和を取り戻すという両者の協調・調和といった点に注目する考え方も出てきています。こういった元来西洋的な発想では見過ごされてきた考え方というものがまだまだ非西洋の国々に眠っているということもあるだろうと思います。こういった価値観もどんどん吸収していかなければならんなあ、などと思ったのです。

 約一週間の船上生活の中で、全部で3回のエリトリア企画を担当させていただきました。とはいえ、これら3回の企画を通し、いったいエリトリアの何を伝えることができたのか分かりません。短い時間でしかも僕の稚拙な話の中から、観衆の皆さんが何を感じられたか分かりません。もしかしたらありきたりの退屈な話に過ぎなかったかもしれません。ただ少なくとも、人様の前で話をするという経験や、今まさに中近東に向かおうという船の上で戦争勃発のニュースを聞くという経験、そして多くの素敵な人たちとの出会いなど、船上での様々な貴重な経験を通し、僕自身改めてエリトリアでの出来事や自分自身のこと、ひいては日本のことなどについて再考することができました。そこで考えたことの全てをここで説明することはできません。また今度ゆっくり整理します…。

 まあこれで、僕のエリトリア滞在もいよいよ残り3週間足らずとなりました。やや単調になっていたアスマラでの生活も、一週間の船旅のおかげでリフレッシュしてまた新たなエリトリアを見ることができればいいのですが、楽しい船上生活を終えここアスマラに戻ってくるとやはり毎日が単調に感じられてしまう…。とにかくあとはリサーチ仕事を終わらせて、学生の友達が帰ってくるのを待つばかり。もう少ししぶとく滞在してみます。
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