エリトリア日記
「エリトリア日記」Vol.8 9月21日(金)(by 大場寿人)
 滞在も2ヶ月を過ぎ、ふと感じたことがあります。ここの人たちと話をしていると、「ここはエリトリアだから」というリアクションをされることが多いのです。

 以前、法務省の人と今回のリーガルリサーチワークのテーマを相談しているときのことです。そもそもこのリサーチワークというのは、日本法などとエリトリア法を比較した資料を作って、情報の不足しているエリトリアに日本をはじめとする国々の法律を紹介し、エリトリアの法整備に少しでも役立ててもらいたい、という目的で行っているものです。ですから、そのトピックを考えるにしても、ちょっと発展している法律とか時代の変化の中で必要性をいわれるようになった法律とか、そんな分野を取り上げたいと思ったのです。そこではじめは、大学時代に少しばかり研究したことのある犯罪被害者の救済に関するテーマを扱ってみたいと考えました。

 刑事手続(警察の捜査や刑事裁判の手続など)の中における犯罪被害者の地位について。例えば、捜査の過程で被害者の人権や感情が踏みにじられることで、犯罪の被害者が警察の手によって第二の被害を受けてしまうという問題。さらには、被害後に非日常的な生活を強いられた被害者がいよいよ日常生活に復帰しようとしたときに、社会の中で偏見や差別などを受け今までどおりの生活を送ることができなくなるという第三次被害者化の問題。そんなトピックを提案しました(なお刑事手続における被害者保護に関する法律は日本でも平成12年に制定されたばかりです)。
 しかし彼は、「確かにそういった被害者の処遇は大切な問題だと思う。日本のように警察官の教育や捜査の質の進歩した国では、そういう問題に対処することはできるかもしれない。でも、エリトリアのような途上国、第三世界では、警察官の質も捜査の質も低い。だから、犯罪者を探すのに精一杯で被害者のことまで考える余裕はないんだよ。ここはエリトリアだから。」と。
 なんだかしっくりきません。確かに、今ではまだそういった問題意識が低いのかもしれない。でもだからこそ他の国と同じ失敗を繰り返さないためにも今のうちにそういった問題意識をもっていてもらいたいのに、と思うのです。しかし、いくらその辺を訴えてみても芳しいリアクションはありません。

 そこで、今度は犯罪被害者に対し国がその被害を補償するなどの目的で被害者にお金を給付するという制度について提案してみました。これについてはちょっとビックリした様子でした。
 「日本では被害者に対して国がお金を払うのか?」と言うのです。
 この点、日本には犯罪被害者給付金制度というものがあります。その支給される範囲や額、手続などに多くの問題はあるのですが、通常多くの犯罪者はお金を持っていないため加害者からの賠償が事実上期待できない中において少しでも被害者を救済しようという目的で、確か日本では70年代から80年代位に制定されたものだと思います。
 しかし、これに対しては「エリトリアでは国もお金を持っていない。だから国が被害者にお金を給付するなんてできないんだ。それにエリトリアでは、お金を持っていなくて賠償金を払えない者は、街で事情を説明して人々からお金を集めるという制度が確立しているんだ。むしろ国がお金を払うなんてことになったら誰も加害者にお金を出さなくなってしまって問題だ。」と言うのです。
 えっ、賠償責任を負った人が街頭募金をする? 確かに街では物乞いの人がたくさんいます。またときには、物乞いをしそうに見えないそれなりの身なりの人が、何か言いながら喫茶店の客などからお金をもらっている光景を見かけることもあります。しかも、喫茶店の客は多くの人がその人にお金を渡しているのです(物乞い風の人にはほとんど渡さないのに)。なるほど、きっとあれが彼の言う「確立された制度」なのでしょう。とはいえ、人々が渡す金は見た限りでは小銭です。ほとんどがコインなので日本円で言えば10円以下。そんなのいくらがんばってもたいした額にならないことは目に見えています。しかし、いっぱしの法務省の役人が、被害者救済はその「確立された制度」があるから大丈夫だ、と言うのです。いくらそれでは不十分だろうと言っても「ここはエリトリアだから。日本のように発展した国とは違うんだ。」と言われてしまうのです。
 分かった。確かに日本でも犯罪被害者救済や国家による補償問題を議論すると国家予算の問題は必ず出てくる問題です(ちなみに必要な制度だといわれながらもなかなか実現しない被疑者の国選弁護についても国家予算が問題にされます)。いくら必要な制度であるといっても国家予算がなければ制度化されないというのは分かります。

 そこで今度は視点を変え、あくまで被害者の保護は民事手続でしか図れない(つまり加害者からお金を取るしかない)のであるなら、その民事の不法行為法の問題、特に損害賠償の範囲や賠償額算定の問題についてはどうだということで、これを提案してみました。

 しかし「エリトリアの人は皆お金を持っていない。だから、いくら損害額がいくらだと言ってみたところで、実際にそれを払える人なんてほとんどいないんだ。だから、裁判所も両当事者の経済状態なんかを考えながら、実際に払えそうな額を決めるんだ。」と言うのです。
 でも、それではあまりにも被害者が浮かばれない。金持ちに轢かれれば良いが貧乏人に轢かれてしまったらやられ損だということです。確かに日本でも、加害者がお金を持ってないためにいくら判決をもらっても実際にはお金をもらえない、という問題はたくさんあります。でもそれでも一応判決において被害額相当の賠償額の支払を命じることで、保険その他の手段によってどうにか補償の実現を図るという努力があるのだと思います。また、社会一般に対する不法行為抑止の観点からしても、一応名目だけでもいっぱしの賠償額を命じることが必要なのではないかと思うのです。
 しかし、彼はやはり「ここはエリトリアだから。皆お金を持っていないんだよ。」と。

 さらに、今度は場面が変わって、ピースボートの現地スタッフ、マッコーネンさんとの会話です。実は先日、エリトリアでは政府発行の新聞以外のプライベートの新聞が全て発禁になってしまったのです。その理由は、大統領を批判する一部の者達の事に関し色々な新聞で色々な情報が出回り国内で情報が混乱しているからだ、ということです。この件に関してマッコーネンさんと話をしていたのです。
 まず、エリトリア憲法では(以前書いたとおりこの憲法はいまだ施行はされていないのですが)きちんと表現の自由が保障されています。また、明文でプレスやその他のメディアにも保障されると書いてあります。さらに、それが制限される場合も具体的に書いてあります。ここで関係しそうなものとしては、国防上の利益のため、公衆の安全のため、などです。これらはむしろ日本国憲法よりもきちんとメディアの表現の自由を保障してある規定と言えます。にも関わらず、上記の理由のみで一斉にプライベート新聞を発禁にしてしまうとは驚きです。エリトリアではいまだ私営のテレビ局がないので、現在エリトリアのメディアは全て政府系のメディアであるということになってしまうのです。こんなことが日本などの先進国で起きたならば重大な問題になることは間違いありません。これは大変なことだと思い、今エリトリアではこの発禁処分についてどのような反応があるのか尋ねてみました。
 しかし、マッコーネンさんは「いや何の動きもありませんよ。新聞社も特に反発したりもしてません。確かに、新聞を発禁にしてしまうのは良いことではないですけど、ここはエリトリアだから。」と言うのです。
 「ここはエリトリアという途上国で、日本のように皆が多くの情報を手に入れることができるわけではない。だから、一部の新聞が勝手なことを書いてしまうと皆がそれを信じてしまって大変なんだ。だから発禁処分も仕方がないだろう。」と言うのです。
 何か分かる気もします。日本で法を勉強しているときは、表現の自由大切、国家による情報操作とんでもない、と半ば絶対的に信じていたのですが、エリトリアのような不安定なそして閉鎖的な社会においては、嘘の情報の流布によって社会の秩序が大きく乱されてしまう危険もあるのでしょう。そしてそのために隣国エチオピアとの関係が緊張化したり国内の発展が遅れてしまったり、そのために多くの人の希望がそがれてしまったり、そういうことが本当に起きるような気もするのです。そして、それだったらプライベート新聞をしばらく発禁にして政府系新聞のみで正しい情報だけを伝えよう、という気持ちも分かるような気もするのです。
 この点、日本的そして西洋的発想だったら、情報は嘘でも真実でもとりあえず社会の中に出すことを認めてその社会の中で情報の価値や真実性を判断すればよく、国家による情報統制はその情報自体が真実かどうか分からないし場合によっては思想統制につながり自由主義社会を没却してしまうからいけないんだ、ということになるでしょう。つまり社会の自浄作用を期待する考え方です。 でも、エリトリアくらいの情報量そして教育の程度では、その情報の価値や真実性を社会の中で判断すればよい、という理屈は通じないのでしょう。"自由"をほったらかしにしていてうまくいくほど社会の自浄作用が機能しているとは思えないのです。そうなるとやっぱり政府を信じる他ないのかな、なんて思ったりもしてしまいます。

 「ここはエリトリアだから」という言葉。まだまだ理解に難しいところもあります。特に法制度に関しては「10年後のエリトリアは発展しているから」という発想をもって作っていってもらいたいと思うのですが、その「発展」という状態を具体的にイメージできない人も多いのかなあなんて思ったりもしました。それというのもやはり現状として「ここはエリトリアだから」なのでしょう。最近は少しづつこの現状の問題としての「ここはエリトリアだから」という言葉の意味が分かるようになってきたような気がします。日本的で西洋的な理想や理屈をそのまま持ってきてもここでは通じないのです。いかなる理想や理屈であってもその社会の文脈の中で考えなければならないのでしょう。そしてそれは"自由"という理想であっても同じなのかもしれないとも思うようになってきました。
 とはいえ、この「ここはエリトリアだから」という言葉が、今みたいにネガティブな言葉としてではなく、皆が、とてもポジティブな言葉として使えるようになったら、とても素敵だろうななんて思います。
エリトリア日記Vol.9へエリトリアインデックスへ