エリトリア日記
「エリトリア日記」Vol.6 9月3日(月)(by 大場寿人)
最近は、アスマラを離れ小旅行に行ってばかりですが、先日もフィルフィルというところへ日帰り(のつもり)の小旅行に出かけてきました。このフィルフィルというところは、エリトリアに最後に残された熱帯雨林地域であり、エリトリアで野鳥や野生動物を見るのに最も適した地域だということです。このフィルフィルに行くには途中40キロ程舗装されていない道を通らなければならないので、普通のタクシーで行くことはできず、特にオフロード車を借りて行かなければならないのです。

軍用の薬莢(やっきょう)
 アスマラからケレンに向かう道を西へ20キロほど行くとセレジェカという集落があり、北へ向かう未舗装の道が始まっています。ここからひたすらフィルフィルに向けてデコボコのダートの中を突き進むのです。この未舗装の道も他の舗装道路と同じくイタリア植民地時代に作られたものだそうです。とはいえ、舗装はされておらず岩も撤去されていないので、予想以上にラフな道のりになっていました。時速10キロから20キロ程で、のこのこと進んでいきます。途中、アデナという地域にある一軒のレストランを見つけることができました。このアデナという地域は独立戦争の最中にある88年に激しい戦闘の舞台となったところで、レストランの直ぐ裏には戦車用の砲弾の落夾が山済みにされていたり、その奥には戦争でなくなった人々が祭られているお墓があったりしました。
 アデナからさらに3時間程進むとようやくフィルフィルと呼ばれる地域に近づいてきました。あたりには集落はなく人も車も全く通らず、まさに山奥に入ってきたのです。がたごとと車に揺られながら、自然の中のドライブもいいものだ、日本に帰ったら山道をのんびりとドライブでもしたいな、なんて思っていると、突然、バンッ!!という音が鳴るとともに、運転手が何か言いながら車を止めるのです。故障です。電気系のトラブルらしくエンジンがかからなくなってしまったのです。

 皆で車を降りると、運転手が手早く工具を取り出しボンネットを開けなにやらいじり始めたので、車に詳しい人なのだろうと思い、安心してランドローバーの屋根のキャリアに登り、煙草をふかしながらあたりの景色を楽しんで待っていたのです。とはいえ、エリトリアで最も美しい森だといっても、雨季以外は河が干上がってしまい、低地では夏は40度を超える暑さが待ち受けているような国ですから、日本のような美しい風景を見ることはできません。地面は基本的には岩場ですし土も水っけのない茶色い土で、木々もうっそうと繁っているという程は背が高くなく葉もついていません。これならまだ、僕が4年間通っていた大学のある八王子の山の方がまだ青々とした美しい森林を見ることができるだろうというくらいです。煙草を一本吸い終わると既にその風景に飽きてしまいました。車を降り修理の様子を眺めますが、何がどう故障しており何をどう修理しているのかさっぱり分かりません。一応、セルは動いているのでバッテリーがあがったわけではなさそうです。それでもセルの音は虚しく森に響くだけでなかなかプラグが点火しないのです。

車を降り1時間も経つとそろそろ頭の中で不安がよぎり始めます。辺りには人影が全くありませんし充分な水や食糧も持ち合わせていません。陽射しは強く、座っているだけでも徐々に体力は消耗していきますし、一週間前アルクダットに行ったときにひいた風邪もまだ治っておらず体はだるいし、このまま車が直らなかったら一体どうなってしまうのか。最悪の事態に備え、水を飲むのも控えめにし、できるだけ日陰の涼しいところで体力を温存し、辺りに食糧になりそうな植物はないか探してみたりしながらとにかく車が直るのを待っていました。しかし、セルの音はあいも変わらず虚しく森の中に木霊するだけ、一向にエンジンはかからないのです。

独立戦争から放置された戦車
 1時間半ほど待ちましたが結局エンジンがかからないので、とりあえず車で下れるところまで下っていこうということで、ギアをニュートラルに入れエンジンのかからないまま下り坂を下っていくことにしました。20分ほどすると軍隊の人々が駐在している建物が見えてきました。ここにエンジニアがいればよいのですが、そこには車を直せる人はいませんでした。軍の人によれば、ここからずっと下っていけばミリタリーキャンプがあるから、そこでエンジニアを探せばよい、もしそこで車が直らなければそこから1時間ほど歩いたところに村があり、そこには車もあるからその車に乗せてもらえばよいのではないか、ということです。これでようやく道筋が見えてきました。とはいえ、既に予定の時刻を大幅に過ぎ3時半近くになっています。6時半を過ぎれば日が落ちてきますので、それまでにはどうにかしなければなりません。とりあえず、そのミリタリーキャンプに行くという兵士2名を乗せ再び坂道を下っていきます。ここから先は下りが緩やかになっており、思うようには進みません。所々、でこぼこな岩場や上り坂になっているところで車を降り、僕とマッコーネンさん(「ピースボートアスマラ支部支部長」という肩書きを持ったエリトリア人の方です)、そして2名の兵士で車を押します。ひとり女性の服部さん(今回エリトリアガイドブック作成のためリサーチに来た方です)には、車の行く手を阻む石などをどけてもらいます。数度、そのように難所を潜り抜けていったのですが、とうとう頼みの綱である“下り道”は終わってしまいました。後はとにかく人力のみで車を前へ前へと押していきます。

30分程でしょうか、そのように車を押していくとようやくキャンプに近づいてきたとみえ、ミリタリールックの人たちが道を通りがかるようになりました。彼らの協力を得てどうにか前へと車を推し進めていきましたが、とうとう6人がかりでも超えることのできない坂に出くわし、人力での前進を諦めざる得なくなったのです。もっとも、ミリタリーキャンプまではあと少しです。運転手がキャンプまで歩いていきエンジニアを探しに行くことになりました。しかし、運転手は自分がひとりで行ってもおそらく誰も助けてくれないだろう、怪しまれるだけだ、と言うのです。旅行客のしかも女性が行って助けて欲しいと言ったほうがいい、と言うのです。そこで結局運転手と服部さんが一緒に助けを呼びに行くことになりました。運転手は服部さんに、どういえばいいか分かってるよな、と繰り返し念を押していたのです。普通、こんな山道で車が故障して困っていると言えば誰でも助けてくれそうな気がするのですが、常に生死と隣り合わせの緊張状態にある紛争国の軍隊にはそのような発想は当てはまらないのかもしれないのです。この辺も微妙なカルチャーショックでした。

 僕とマッコーネンさんは、車で待機することにしました。風邪の完治していない体で滅多にしない肉体労働をしたせいで疲れがどっと出てきました。しかもこの先、水や食糧も手に入れることができるかどうか分からない状態でとにかく呆然とするしかありません。とりあえず、手持ちのオレンジをひとつ取り出しマッコーネンさんと半分ずつ食べました。ライムくらいの大きさしかないオレンジのその半分でも、今の状況では堪らないご馳走です。ふと、マッコーネンさんが、サルだ、と言います。彼の指先を追うと15メートル程先に黒い体に白い顔をした野ざるがじっとこちらを見ているのです。思えばここはこの旅の目的地たるフィルフィルだったのです。しかし、いつのまにか目的地はフィルフィルからその先の水と食糧のある集落に変更されていました。今の状態では野ザルだろうか野鳥だろうか興味はありません。とにかく、水も食糧も手に入るという安心が欲しいのです。

 30分ほど待つと運転手が数人の兵士たちを連れて戻ってきました。そして再び大人数で車を押し始めたのです。しかし、マッコーネンさんが足を滑らせ左肩の骨を外してしまいこれ以上車を押すことができなくなたので、あとは軍の人たちに任せることにして、僕とマッコーネンさんはキャンプに行って休むことにしました。途中、案内してくれた兵士に、お前は良い経験をした、などと言われましたが、そういう発想は無事助かってから考えたいものだ、などと思いながらキャンプへと歩いていきました。

 キャンプは干上がった河のほとりにありました。木々の陰にいくつものテントが張られており大きなキャンプのようでした。その中で少し高台になった丘の上に張られたテントの脇で服部さんが休んでいました。そこにいる少しばかり英語をしゃべる兵士達に温かい紅茶をご馳走になりました。こういうところでは我々は生水を飲むことができないので、沸かしたお湯で温かいものを飲むしかありません。しかし、疲労が溜まり渇いた体にはこの紅茶がたまらなくうまく感じるのです。しばらくそこで休んでいるとエンジンのかかった車の走る音が聞こえてきました。車が直ったのです。残りがバナナ3本にオレンジ2個、水が200ml位というところでようやく明るい兆しが見えました。これでアスマラまで帰ることができる、そう実感したのです。

独立戦争による死者を祀る墓
 キャンプの人々にお礼を言い、車に乗り込み先を急ぎました。再びダートの道を行き森林を抜けサバンナ地帯へ、そして果てしないかのようなサバンナもとうとう舗装した道に出ることができたのです。ここから、マッサワから30キロのところにあるガテーライの街へと向かいました。これでようやく水、いや水どころか冷えたコーラを飲むことができると思い、元気を取り戻しあたりの景色を楽しんでいたのです。

 6時半頃、ようやくガテーライの町につくことができました。さっそくここのレストランに行き、冷えたコーラを流し込みました。一応、食事もしておこうということで、ティプシというラム肉を炒めた料理をインジェラとともに平らげ、平和なひと時を過ごすことができました。町のありがたみを体全身で実感しアスマラに向け再び車に乗り込みました。が、しかし、またもセルの音が虚しく木霊するのです。またしてもエンジンがかからなくなってしまいました。既に夜の7時、服部さんは明日の朝、福祉省のディレクターとのアポがあるのでどうしても今日中にアスマラに帰らなければなりません。またしても大きな課題を抱えることになってしまったのです。
その後、マッコーネンさんとともにこの町で車をもっている人とアスマラまで乗せていってもらうよう交渉をするのですが、法外な料金を請求してくるのです。結局交渉決裂。もう夜の10時過ぎ、バスも走っていません。町も寝静まってしまい、あとはマッサワ・アスマラを結ぶ街の中心を横切る街道を通るトラックを止めヒッチハイクするしかないのです。何台の車に呼びかけたでしょうか、夜の12時近くなりようやく一台のトラックに乗り込むことができたのです。

 結局、その後3時間程かけアスマラの街に帰ってくることができました。ここには宿もあるし水も食糧も豊富に売っている。もちろんバスやタクシーも走っているし(夜中の3時でもタクシーを見つけることは出来るのです)生活するには申し分ありません。最近、宿の水がでなかったりよく停電したりバスは定時には来ないしでアスマラでの生活に不便を感じ、日本を懐かしんだりしていましたが、そんな自分が贅沢な様に感じてしまいました。結局、目的のフィルフィル観光を楽しむことは出来なかったのですが、エリトリアもひとたび町を離れると、水道も電気もないしマラリア蚊は生息しているし昼は40度を越える暑さに曝されるし、特に僕達のようなその環境に免疫のない人間はその生存すら容易でないような地域がたくさんあるのだろうということを実感することが出来ました。先日、エリトリアの国家政策について書かれたブックレットを見ることが出来たのですが、エリトリアでは未だ全人口の8割もの人間が安全な水を手に入れることが出来ず、また多くの人間がマラリア蚊の生息地に生活をしているとありました。エリトリアに来てアスマラだけを見る限りは、それは意外に発展した、意外に西洋化された街、そして国のように見えますが、やはり国土全土に渡って発展するということは容易なことではなさそうです。
 また僕達が将来エリトリアを訪れることがあったとしても、アスマラの発展だけを見てエリトリアの発展を感じてはいけないのでしょう。もちろん守るべき自然や文化は守りつつ、その中で国民全体が平和で安全な生活が出来るような、そんな国になっているかどうか、それを確かめなければいけないのだろうと思いました。なにはともあれ、安全な水を入手可能、という状態はほんと安心です。
エリトリア日記Vol.7へエリトリアインデックスへ