第4回エッセイ大賞入賞者発表

第4回エッセイ大賞入賞者発表
大賞 被爆者三世の旅/江藤理子さん(23歳)
次点 平和はどこにあるのか/小松洋美さん

第4回エッセイ大賞選評

●鎌田慧さん(ルポライター)

今回も旅と平和について考える若い人たちに真摯な論文が多く寄せられた。

それぞれの外国旅行の体験を通して、たんに知識を得るという旅の仕方ではない、おたがいを知る、理解しあうことの可能性を重視する文章が多かった。知り合 うことによって、たがいに殺し合うことがなくなる、という平和のつくりかたが、若者たちのあいだでごくあたりまえの発想になってきていることを知ることが できる。

政府が「国際化」などというまでもない、すでに若者たちは政府の思惑などよりもはるかに深く、独自な交流をはじめている。

・大賞「被爆三世」江藤理子
文章が簡潔すぎて、よくわからないところがある。たとえば、15歳で単身渡米した、ということだが、そこにどういうことが伏在していたのか、それがよく分 からない。しかし、文章の簡潔さが、書いている事実の背後にある筆者の体験から絞り出されている表現であることを想像させる。文章に漲っている、実践の意 欲を買いたい。「私一人では何も変えられない。でも、私は人と人との、小さなプロセスをサポートできる」という自負が、やがて世の中を変える行動につな がっていく。そんな予感をふくんでいる。

・次点『平和はどこにあるのか』小松洋美
フイリピンの「貧困地区」でのボランテイア活動をしているうちに、豊かさがあると思っていた自分たちの生活よりも、貧しいとおもっていたフイリピンの貧し い地域の豊かさを理解できるようになる。戦争と平和、貧しさと豊かさ、を自分の心の中から見ていこう、という旅へのアプローチは、実践行動を引き出すよう になる。

●伊藤千尋さん(ジャーナリスト)

最終選考に残った十編を書いた人は海外生活を経験しNGO活動への意欲も強く、すでに自分の人生を見つけている人も多い。一読して感じたのは三点だ。まず、今さらピースボートに乗らなくても、今の人生をそのまま歩めばいいではないかと思った。

第二に、みんな論文を書くのが上手であり、第三に、是が非でも船に乗りたいという迫力が感じられない。いちばん肝心な、そこが欠けている。一口で言えば、 内容が軽いのだ。「よく書けました、でも、それだけね」という感じである。合唱で言えば、きれいな歌声だ。そんなものはいらない。下手であっても、この歌 を聴かさずにはおかないという意志を見せてほしい。さもなければ、高額な渡航費を自分で稼いでいる人の努力に見合うわけがない。

その中で気になったのが、江藤理子さんだ。自身が被爆三世で、中学生のとき平和親善大使としてベトナムを訪れ、高校、大学は単身で米国に留学し、中国を訪 れて日本の侵略を調査し、卒業後は米国でNGO活動をする。行動力ある彼女こそ今の道をそのまま歩めばいいと思うが、ピースボートの旅で日米のNGOをと もに高める役割を期待して大賞に選んだ。

第4回「旅と平和」エッセイ大賞 大賞受賞作品

被爆者三世の旅⁄江藤理子さん

“被爆者二世、三世、無料健康診断”

地元紙に、そんな一行。被爆者二世は母で、私は三世。

広島に原爆が落ちなかったら、私は今、何処で何をしていただろう。  14万人の死者の一人が、まだ中一の祖母の弟だった。16歳だった祖母が三日三晩探し歩いたが、学校ごと消えた弟は見つからなかった。その後、祖母は被 爆が原因で乳癌を発症し、15年間の闘病生活の後、“死にたくない”と泣きながら息を引き取った。長い闘病生活の医療費は、原爆手帳のお陰で無料だった。 今年102歳になる曽祖母は、「お腹が痛い。今日は学校を休む。」そう言う息子を叱って登校させ、被爆死させた。乳飲み子を抱えた曾祖母の代わりに、祖母 は爆心地に弟を探しに行った。放射能を浴びさせ、娘も殺してしまったと、曾祖母は長年自分を責めた。今は認知症になり、やっと自責の念から解放されたよう だ。家族は原爆の話をしたがらない。過去の事、忘れてしまえればどんなにか楽なのにと叔母は嘆く。生まれ故郷の広島は、すっかり綺麗な町になったのに、 人々の心の傷は今も癒されない。

家族、親戚が過去を忘れる努力をする中、私は祖母の思い出を辿り、曽祖母と共に泣いた。祖母が激痛に苦しんだ事、皆が泣いた事、悪夢の様な現実が存在した 事、繰り返されてはいけない過去がある事、忘れてはいけないと思っていた。そのためか、よくピカドン(原爆)の夢を見た。汗まみれで目を覚まし、弟と妹が 普段通り気持ちよさそうに寝ているのを見て安心したのを覚えている。

祖母の死が原点となり、私の平和希求の旅が始まった。14歳の時子供平和親善大使として訪れたホーチミン。眩いネオン、活気溢れる街の中で見た、ホルマリ ン漬けの奇形児とストリートチルドレン。戦争とは何か、平和とは何かを自問自答したが、はっきりとした答えは出なかった。帰国後すぐ、お年玉やお小遣いで ベトナムの子供の学資援助を始め、難民問題に関わるNGOでボランティア活動をした。慰安婦損害賠償や教科書問題等、戦争に関連する課題を未だに多く抱え る日本に住みながら、加害者であり、同時に被害者である“日本”即ち“己”のあり方に悩んだ。教育雑誌にエッセイの連載を始め、日々の自分のやり切れない 思いを文字にしてぶつけたが、とても空虚で無力感に苛まれる日々が続いた。只、被爆者の家族としての被害妄想だけが残り、特にベトナム戦争を知ってから は、アメリカという国がとても憎らしかった。そして、何故自分は過去に拘り苦しむのかと自問した。

結局、2000年、15歳で単身アメリカに渡った。敵を理解し、自分を鍛えれば、世界を変えられる人間になれるという単純な考えによるものであったが、確 信を持っていた。メキシコ不法移民と小さなトレーラーで生活した高校時代。零下四十度になる冬場も薄い壁の間から北風が入りこんだ。貧しいにも関わらず、 分け合う事を惜しまなかった彼らに人間の強さと絆を教えられた。極貧生活の中で、自由の国アメリカの隠された現実を、身を持って学んだ。

自由とは何なのか。私の目指す平和は、果たして全ての人の平和なのか。平和の定義には個人差があるのではないか。戦争が無いだけが平和なのか。アメリカを憎んで、何が解決されるのか。やり切れない思いに押し潰されそうになりながらも、私は平和の定義を探し続けた。

9/11テロでアメリカは変わった。自信を無くし、他国に怯えるアメリカで、私は七年間を過ごした。ニューヨークのテロは、よく日本の真珠湾攻撃に例えら れた。アメリカの片田舎で、唯一の日本人であった私は、テロリストと罵声を浴びせられる事も度々あった。悔しい思いの中、地元の小中学校や教会を回り、原 爆の話をした。被爆者の生々しい写真を見て絶句する人が多く、いつも質問攻めにあった。アメリカの歴史の教科書は何百ページもの厚さだったが、原爆につい ての記述は1/8ページで済まされていた。自ずと日本の教科書問題が連想された。

不幸な出来事に見舞われた時、被害者は憤慨するが、加害者はさして気にも留めない。そんな状況が国家間レベルで頻発している。国は個人なしでは変わらない。個人が集まって村になり、町になり、県になり、国になる。個人が変わらなければ国は変わらない。

テロの後、貧困地域での新兵募集活動が活発になった。メキシコ人の友人が、アメリカ国籍を入手するためや大学の学費を賄うために入隊し、遺体になって帰っ てきた。生きるという事と生き延びるという事の違いを知った。生き延びられれば、幸せとは限らないのだ。息を吸っているという行為は生の定義と考えていた が、本当に生きるということは、尊厳を持って生きるという事。亡き人になって帰国した友が夢見たのは、人並みに扱われる事。よそ者としてでもなく、差別の 対象でもなく、アメリカ人として自由の国アメリカに生き、将来を約束される事。彼の葛藤を知っていた16歳の私は、彼の入隊に反対しなかった。貧困と戦争 の深い関係を目の当たりにした。

大学時代、日本の中国侵略を調査するため北京からチベットまでを横断した事がある。日本人であるがために石を投げられる事も多くあったが、日本で学んだ中 国侵略と、被害者から直接聞く“虐殺”の違いは、19歳の私には上手く消化できなかった。日本を憎み、泣き崩れる老婆と、被爆した息子と娘を想い、泣いた 曽祖母の姿が不思議な位に重なり、涙が止まらなかった。感情を抑える事が出来ず、上手く論文が書けなかった。結論を出せなかったのだ。加害者であり、日本 人である私が、他人事のように過去や現在の日本を批判する事は出来ない。何度論文を書き直しても、綺麗事でしか中国での体験を綴れない自分が歯痒かった。

貧困削減が平和への第一歩と考え、大学卒業後、国際NGOに就職した。そして、アパラチア山脈の麓にある過疎化した鉱山地域と、ニューヨークやタイやモー リシャスのスラム街とで、貧困削減のために活動した。ニューヨークでの経験は先進国での貧困を理解するのに大いに役立った。貧困の中で育った人々は教育 上、生活上で将来的に苦労する可能性が高く、差別にも直面する。シェルターの束縛された環境で育った子供達はタフだが、子供らしく生きたいという欲求と現 実の狭間で苦しむ。その過程は、その後の成長に大きく影響し、社会から隔離されてしまうケースも多い。大人になってしまえば、子供時代の過酷な経験など殆 どの人々が考慮に入れてくれず、問われるのは自己責任だけである。自己責任を問う前に、その背景を理解するよう努めなくてはならないと強く思った。

ニューヨークの低所得者用住宅に住む、プエルトリコ出身の男の子が、マンハッタンの綺麗な景色が見えるからと自宅に招いてくれた事があった。11階の窓か ら世界貿易センター跡地の方向を指し、「僕はここから二機目の飛行機が世界貿易センターに突っ込むのを見たよ。」と言った。彼の目に焼きついたその光景 が、11歳児に海軍入隊を決意させ、イラク人を含めイスラム教徒を敵視させた。ニューヨークで、そんな子供達を沢山見た。怨恨、暴力、そして戦争の影響、 憎しみが憎しみを生む悪循環を考えざるを得なかった。

金銭的な援助ばかりではなく、人を通じた顔の見える援助をめざして、早四年になる。この間、物事の背景を理解する重要性を学んだ。人と人との繋がりと信頼 で成り立つべき社会の、その基盤が歪んでいる。グローバル化が進む近年でさえ、情報不足、コミュニケーション不足が要因で、我々はミクロ、マクロ両方のレ ベルで互いの間に大きな壁を作ってしまっている。親しみのない文化、職種、人種、年代、宗教を差別し、問題視するのは容易である。相互不信の根本的な問題 はそこにあると思う。相互理解なしに真の問題解決は不可能と考える。

若くして戦死した高校時代の友人と、民主主義の名の元に殺されていくイラク人。双方にお互いを知る、相互理解の機会があれば、結果は違っていただろう。もし、日本人とアメリカ人が互いを敵と見なさなかったら、祖母は被爆することはなかった。

日本を出て、9年近い年月が経ち、もうすぐ、私は24歳になろうとしている。未だに、平和とは何かを問う旅を続けている。旅を通して、自分自身と向き合う 事を学んだ。人に変化を求める前に自分が変わらなくてはいけないと強く思うようになった。世界を第三者の目線で批判するのではなく、自分を世界の一部と考 え、己を問い直す事が初めの一歩であると思う。自分と世界は、想像以上に繋がっている。国を責めることも、個人を責める事も今の私には出来ない。原因を理 解する事、そして他人の理解を求める事、すべては小さなプロセスであり、私はそのプロセスに自分の存在理由を見出している。私一人では何も変えられない。 でも、私は人と人との、小さなプロセスをサポートできる。

祖母の死を原点に始まった私の終わりなき旅は、私に、平和を追求する意義を教えてくれた。ピースボートの旅を通して、もう一度、平和とは何かを考えたい。 平和に関心のある人々と、日本人が、そして個人がどの様に世界平和に貢献できるのかを問いたい。そして、被爆者三世の私に課せられた義務は何なのか。漠然 とした国際平和という難題に人々がどの様な希望を寄せているのか、じっくりと話が聞きたい。自分と彼らがこの旅を通して何を見極め、どう変わるのか。旅を 通して、今の自分をどう位置づける事が出来るのか。ピースボートの乗員の経験から学び、今回、書き切れなかった自分の経験も伝えたい。もし、そんな貴重な 時間に恵まれたなら、それは必ず今後の私の原動力になるであろう。世界と私と日本が一つに繋がる旅になると確信している。

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