第1回エッセイ大賞入賞者発表

第1回エッセイ大賞入賞者発表
大賞
白い国に黒い線、地図の中の×/椎名知里さん(18歳)
平和と「平和」の狭間で/王申冉さん(15歳)
次点  
旅と平和/桜庭佑里子さん
平和に届かないと思っている人たちへ/安達茉莉子さん
世界平和と広島/貫田美喜さん

第1回エッセイ大賞選評「『体験』をどう考えるか」

鎌田慧さん(ルポライター)

第一次選考を経て、わたしの手許にまわってきた、候補作を読むと、旅をしてひとと交流し、自分が変わる体験を書かれたものが多く、若者たちの視線の真っ直ぐさが、頼もしく感じられた。

 とりわけ、高校生の椎名知里さんの、「白い国に黒い線、地図の中の×」は、元従軍慰安婦との出会いの体験を通しての、ひとに寄り添って話しを聞き、その 痛みを想像しつつ、自分たちのいまの生活を見定めようとする姿勢は、こらからの若者達にもっとも大事な視点だと思う。

 中学生の王申冉さんの「平和と『平和』の狭間で」は、修学旅行でのヒロシマ体験を、たんに「見た」だけに終わらせず、深く沈潜して考えるることによっ て、なにかができるようになる、との思考は、椎名さんと共通する確かさで、両作品を入選とした。  次点としては、桜庭佑里子さんの「旅と平和」、安達茉莉子さんの「平和に届かないと思っている人たちへ」、貫田美喜さんの「世界平和と広島」の三点があ る。

 応募されたひとたちと今回応募されなかったひとたちの次回の作品に期待している。

第1回「旅と平和」エッセイ大賞 大賞受賞作品  

白い国に黒い線、地図の中の×⁄椎名知里さん

それはちょっぴり近くて漠然と遠い言葉。小さい頃からよく聞く言葉。長年大勢の人が願ったのに未だに達成されていないらしい言葉。それでもこの 国は俗にそれだと言われる言葉。それなのに私たちは実感できていない言葉。戦争のない状態、と辞書には書いてある。私も今までずっとそれがこの言葉のすべ てだと思っていた。でも、十八になったいまだからこそ思う、「平和」って何?

小さい頃から地図を眺めるのが好きだった。初めて眺めた地図は絵本のそれで、カラフルな大陸、その地域の民族衣装、特産物、そして大きな平仮名 でその国や地域の大まかな解説が添えられていた。字が読める年齢ではなかったので、実際はその絵本の半分の意味も理解できていなかったと思う。でも、それ でも十分楽しかった。インドのサリー、中国のパンダ、エジプトのピラミッド、青森のなまはげ、特に気になったものは母に読み方を聞いた。どのページを開い ても、どの国を、どの地域を見ても、絵本の中の「世界」はカラフルでそこの人々は楽しそうに笑っていて、キラキラしていた。

「世界って凄いところなんだ。」

何にも知らなかった。地図に白い部分がある理由も、ピラミッドのすぐ傍にあった解説の読み方も。それでも、あの頃の私は漠然と「世界」に憧れていたんだ。

「世界」=外国に行く、その夢が叶ったのは案外早かった。小学2年生の夏休み、私ははじめて、韓国に両親と行った。あえて旅行とは言わない、旅 行というには精神的にも肉体的にもきつすぎた。親の仕事にひっついていったから仕方ないと言えば仕方なかったのかもしれない、覚悟も多少していた。でも、 一番ショックだったのは、韓国にロッテワールドというものがあることを帰国した後に友達から聞いたこと。韓国に遊園地は無いって言ってたのに。現実は甘く ない。

それでも小学生、やっぱりはじめての海外ということで、ウキウキしていた。でも、ソウルの街を見て、がっかりした。周りはビルばかり、道行く人 も黄色人種だから、日本と大差が無い。しかも服装も日本人とほとんど一緒、平和そうなところも一緒だ。外国人が日本には侍がいると未だに思っているよう に、私も韓国人はチマチョゴリを着て生活しているもんだと思っていたから、裏切られた気がした。実際、韓国でチマチョゴリを来た人を見たのは2人だけだっ た。一人はお土産に買ってもらった韓国版りかちゃん人形、もう一人は日本語を話す韓国人のお婆さんだった。

そのお婆さんの話をしたい。その人に会ったのは韓国に行ってから二、三日経った日、そろそろ日本語が恋しくなった頃だった。朝早くにバスに乗り込み、ソウルを出た。高いビルは段々無くなって、民家も疎らになった、信号もないような道を曲る。

「どこに行くん?何すんの?」
「話を聞きに行くねん。」
「誰に?」
「元従軍慰安婦の人たち。」

じゅうぐんいあんふ?もちろん初めて聞いた言葉だった。昔、日本が戦争していたときに韓国の人にすごくひどいことをした、そのひどいことの話を聞きに行くの、と母がそうざっくり説明してくれた時にバスが一軒の民家で止まった。

「いらっしゃい。」

流暢な日本語で出迎えてくれたのは、赤いチマチョゴリを着たお婆さん、随分深いしわだ。あいさつもそこそこに家の中に通される。

イスに腰掛けたお婆さんは深呼吸するみたく、深く息をはいた。そしてゆっくりと低い声で淡々と、綺麗な日本語で一言ずつ、そのひどいことについて話し始めた。

実のところ、私は話の途中から逃げ出したくなった。韓国と北朝鮮がひとつだった話、日本兵に連れて行かれる話、無理に働かされる話、逃げ出そう とした話、そして捕まった話、そうして友達が亡くなっていった話。怖くて怖くて仕方なかった、現実の世界というよりそれは地獄の世界のようで、本当は聞き たくなかった。でも、聞かないわけにはいかなかった。話が進むにつれて、お婆さんの顔が少しずつ強張って、呼吸が速くなる。でも、それを無理に整えて、 淡々と話そうとするから、声が震えてくる。眉間のしわをさらに深くして、それでもゆっくり言葉を選んでお婆さんは必死に伝えようとしてくれていた。だか ら、私が逃げるわけにはいかなかったのだ。

「もう私達みたいな人をつくりたくないんです。兵器とか軍隊の無い、早く平和な世の中になってほしいです」

お婆さんはそんな言葉で話を終えた。バスに乗り込むときにお婆さんが「ありがとうね。」と言った。何故お礼を言われたのかわからなかったから、 とりあえず会釈を返した。バスに向かって手を振ってくれたお婆さんの顔は笑顔だったけどすごく辛そうで、小さい体がさっきより小さくなった気がした。それ はきっとさらに深くなったしわのせいだろうと、手を振り返しながら思った。

ソウルに戻ると、今まで気にならなかったものが目に入った。

「あのフェンスの中は何なん?」
「あぁ、あれは米軍基地なんよ」

まだ、この街は「平和」じゃなかった。今日の朝まで、日本と同じだと思っていた街が、まったく違うものだとやっとわかった。

日本に帰ってしばらくした頃、久しぶりにあの絵本を開いた。白い国はそのままで、韓国と北朝鮮の間にはしっかり黒くて太い戦がひかれていた。ふとピラミッドの横のあたりの国の解説を見た、その時にやっと読めた。

「ふんそうがおおいです。」

そのカラフルで私に世界への憧れを抱かせた絵本はキラキラしているばかりではなかった。地図が少し、怖くなった。

中学、高校と進学すると、歴史の教科書とともに地図はもっと血なまぐさくなった。世界史の授業で紛争・戦争地帯に印をつけていくと世界中に×が ついた。もちろん、かつて絵本で見たピラミッドの横、パレスチナ地区には大きな×がついたし、国名がはっきりしない白い国にもいくつか×を書いた。

そのうち疑問に思うようになった。こんなに×ばっかりついて「平和」な所は世界のどこにあるんだろう。

中学の歴史の授業では、「昔、日本が戦争してた時」のことも勉強した。教科書を読んだ、結構必死に読んだ。でも、年号や事件名がでてくるばかりで、あのお婆さんが言っていたようなことは「日本軍は韓国人にたいへん酷いことをした」ぐらいにしか、載ってなかった。

「こんなんでは伝わらんやろ。」

お婆さんの苦しそうな顔を思い出して、悔しくなった。お婆さんやその友達、その他の韓国の人の苦しみがこんな簡単な一文で片づけられていると思 うと、すごく腹が立った。でも、本当はそうではなかった。私が一番腹立たしかったのは、その苦しさを生で聞いたのに、みんなに伝えられない自分自身だった のだ。

従軍慰安婦問題について、様々な見解があることは理解している。日本軍が強制したのではなく慰安婦が志願したのだとか、そもそも慰安婦はいな かっただとか、この問題に対してはいろいろな意見がある。私はそれらの意見にきちんと反論できるほどの知識も見解も、恥ずかしいがまだ持てていない。それ でも、あのお婆さんの震える声が嘘を言っていたとはどうしても思えない。

この「平和」といわれる日本に生きる私たちは想像力をフル働かせなければいけない。教科書にはスペースに制限がある。人から聞いただけでは漏れ がある。報道だけでは心配だ。だから、その一文にどんな意味があって、誰のどんな思いがあったのか、想像しなければその痛みや苦しさに寄り添うことができ ない。また、その一文の重みがどれほどの意味を持つかも考えなくてはいけない。

世界地図の×印の数だけ、いやもっとそれ以上、今でも苦しみがあり、悲しみがあるはずだ。

一般的に今の日本の状態を「平和」・「自由」としよう。自殺者が毎年3万人を越えていても、親殺し子殺しが頻発していようと、インフラが整備され、清潔な水を使え、おおむねの人は食料の心配が無く、識字率がほぼ百パーセントのこの状態を「平和」としよう。

だが、この「平和」だって何かの上に成り立っているのだ。日本の裕福な生活は、世界の、誰かの犠牲の上あるのではないだろうか?

知ろう、わかろうとしないと過去の悲しみや苦しみ、不幸な出来事はどんどん埋もれていく。そして、またどこかで誰かが同じ道を歩いてしまう。

私は近づきたい、誰かの目を通してでなく、自分の目で自分の肌で感じて、その悲しみや苦しみに寄り添いたい。

私はもっと「世界」が見たい。

平和と「平和」の狭間で⁄王申冉さん

その旅で、私は平和の意味を知り、世界に平和をもたらしたい気持ちを、ゆるぎないものにするつもりだった。

しかしその旅で、私は自分の気持ちが分からなくなり、終始混乱していた。

平和。平和とは何か? どうすれば平和になるのか? なぜ戦争をするのか。

ありきたりな疑問が私にまとわりついて離れなくなった。

今年9月末。私たち3年生は修学旅行へと出発した。広島・京都への2泊3日の旅だった。学級委員だった私は、修学旅行実行委員を兼任した。またとない機会だ、とばかりに、私は毎回の実行委員会にはりきって参加した。

修学旅行関係のプリントの作成を担当することになった私は、そのほかにも原爆の子の像にささげる千羽鶴を、1、2年生に一緒に作ってもらうため、朝礼でそれを呼びかけたり、被爆体験者の方にお礼を言うことにもなった。

被爆体験者の方へのお礼の言葉は、聞いたことをもとに話すつもりでいたが、もとの骨組みとなった原稿も作っていた。なかなか寝付けなかった修学旅行前日、その原稿を頭の中で何度も思い浮かべ、私はやっと眠れたのだった。

翌日の新幹線の中で、私はまたお礼の言葉を頭の中で繰り返していた。ひとりで練習していたときとは違う。私の言葉が実際に影響力を持ち、人の心を動かすことになるかもしれない。緊張してきた。

広島駅に着き、新幹線のドアが開いた瞬間、9月も末だというのに生ぬるい風が吹き込んできた。駅に降り立ってみればきれいな構内。駅を出ても、目の前に広がるのはきれいな町並みだった。

路面電車に乗り込めば、平和な日常の中を生きる人が沢山いる。

本当にここに原爆が落ちたのか?

そこから、私の考えていたのとは違う広島が現れた。

原爆ドーム前で路面電車を降りる。目の前にあったのは確かに原爆ドームだった。しかし思っていたよりもずっと小さい。平和の象徴、原爆の威力を 示す、などとは言うけれど、原爆ではない爆弾の威力を知らない私は、原爆ドームを囲むたくさんの新しいビルを目にして、一体どんなものだったのだろうか と、62年前を思い浮かべようとした。

通勤途中の人もいた。犬の散歩をしている人もいた。原爆ドームは日常に溶け込んでいた。

平和記念公園へ向かう途中、橋を渡った。その下に流れる川の中には、今もたくさんの遺骨があるのかもしれないと思った。その上を小船がゆっくりと通り過ぎていった。「平和」だった。

原爆ドームをバックに記念写真を撮り、私たちは班別で碑めぐりをした。案内をしてくださったのは戦災孤児の方だった。碑と碑の間を移動していた ときには、楽しげに長距離走が得意だったと話してくれた。戦争の悲しみを背負っているからと言って、毎日そればかり考えてもいられない。時代は確実にあの 戦争から離れていく。

名前も分からない方々のための慰霊碑、原爆症でなくなった佐々木禎子さんのための「原爆の子の像」、さらには広島にいた朝鮮人の方のための慰霊碑があった。

爆風でばらばらに吹き飛ばされた、被爆した墓石の前に来たとき、ガイドの方は私たちに聞いた。

「どうして平和記念公園の地面が、この墓石が立っている地面より高いんだと思う?」

分からない、というような顔をすると、

「米軍が崩れた鉄骨や残骸や何やらを、全部この地面の下に隠させたんだよ。だから今でもこの下を掘れば、沢山残骸が埋まっているんだよ」

そうだ。広島の「表面」だけを見て平和だと思ってはいけなかった。実際の地面や、人々の記憶を掘り起こせば、そこには確かに残酷な現実が待っているのだった。

駆け足で碑めぐりを終わらせ、ガイドの方にお礼を言った後、私たちはついに被爆体験者の方のお話を聞くため、原爆資料館に集まった。

お話をしてくださったのは、原爆資料館の元館長である高橋さん。被爆したのは、ちょうど私たちと同世代の頃だった。学校で被爆し、いくつもの好運が重なり、家まで何とかたどり着き、原爆症と戦いながら今まで生きてきた方だった。

淡々とお話をする高橋さん。集中して聞いているうちに1時間があっという間に過ぎた。そしてほとんど忘れかけていた私の仕事を思い出した。

そうだ、お礼の言葉を言うんだ。

高橋さんと向き合い、マイクを持ち、私は初めから声が震えていた。もともと考えていた文章はすでに壊れていた。震えた声で「まず今日は貴重なお話をありがとうございました」ときりだした後、どんどん気持ちが不安定になっていって、ついには抑えきれず涙がこみ上げてきた。

かわいそう、でも、かなしい、でもない。無力。目の前にいる高橋さんのつらさをただ聞くことしか出来ない自分への叱責。そうしたものが混ざり合った涙だった。

かっこ悪いかなと思いながら、私はお話を聞いた感想や、核をなくしたいということを話した。核をなくしたい、以前の私ならもっと自信をもって 言っていただろう。しかし広島での体験を通して、その難しさを体感して、本当は無力感が勝っていたけれど、つい言ってしまったというか、あまりに混乱して いたのだった。

そして日本へ来ることがなければ広島へ来ることもなかった。そういう自分の運命のようなものに感謝する。本当にありがとうございました、と結んだ。

無事にお礼の言葉を終え、広島にいるとはいえ学校生活の一部である修学旅行の中、私は級友の間に戻っていったのだった。「王さん泣いてた?」「なに泣いてんだよ~」とさまざまな声を聞きつつ、私は静かに平和について考えるには、一人で広島に来るしかないと気付いた。

碑めぐりもしない。お話も聞かない。ただ平和記念公園の中にいる。そうして何時間でも考えている。

平和って何? 戦争って何? 欲望って、憎しみって、人間って…何?

広島の町の、平和。皆が望んでいる「平和」。その間には、何かあるような気がして仕方ないのだ。近所に原爆ドームのある暮らし。住んでいる国に 原爆ドームのある生活。そしてこの世界に原爆ドームのある真実。平和と「平和」。薄くて低くて、それでも越えられない壁が存在しているような気がしてなら ない。

いつかもっと大人になって、知恵をつけて、また広島の地に立てば、何か分かるかもしれない。そして、これからは、「平和」を軽々しく口に出してはいけないと思った。

修学旅行は、私に友情や団結のほかに、平和について、教えてくれたのだった。

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