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【エッセイ】もう一度タヒチへ(ユース非核特使:福岡奈織さん 後編)

【エッセイ】もう一度タヒチへ(ユース非核特使:福岡奈織さん 後編)
ベネズエラのユース・オーケストラのメンバーと福岡奈織さん(右・第83回ピースボート洋上にて)
第7回おりづるプロジェクト(第83回地球一周の船旅)に、ユース非核特使(※)として乗船した福岡奈織(なお)さんの寄稿文を、2回にわたって紹介しています。広島の大学生である福岡さんは、21歳のときにピースボートに乗船しました。福岡さんの印象に残ったのは、フランスによる核実験が行われたタヒチへの訪問です。タヒチの被爆者との出会いを経て、クルーズ終了後に再度タヒチを訪れた彼女が感じたことは何だったのでしょうか?(以下本文)

※ユース非核特使
被爆者の体験を継承し、国際社会に訴える若い世代に対して、日本政府(担当は外務省)が委嘱する制度。
ベネズエラのユース・オーケストラのメンバーと福岡奈織さん(右・第83回ピースボート洋上にて)
第7回おりづるプロジェクト(第83回地球一周の船旅)に、ユース非核特使(※)として乗船した福岡奈織(なお)さんの寄稿文を、2回にわたって紹介しています。広島の大学生である福岡さんは、21歳のときにピースボートに乗船しました。福岡さんの印象に残ったのは、フランスによる核実験が行われたタヒチへの訪問です。タヒチの被爆者との出会いを経て、クルーズ終了後に再度タヒチを訪れた彼女が感じたことは何だったのでしょうか?(以下本文)

※ユース非核特使
被爆者の体験を継承し、国際社会に訴える若い世代に対して、日本政府(担当は外務省)が委嘱する制度。

行ってみる、会ってみる

【エッセイ】もう一度タヒチへ(ユース非核特使:福岡奈織さん 後編)
タヒチでの証言会から
地球一周の航海で学んだことの一つに、「よくわからないことに出会った時、わかるための近道は、その場に行ってみることだ」ということがあります。日本での大学生活に戻ってから、タヒチのことがどうしても気になっていました。

ガビさんの話してくれた伝統的な農業や、ポリネシアの文化にも惹かれていた一方で、なぜタヒチの人たちは核実験場で働くことになったのか、被爆したと分かった今、どんなことを思いながら日々暮らしているのか、とても知りたくなりました。

また、先にも書いたとおり、私はこういうことを考えるときには、現地に住む当事者の目線から何が見えているのかを知ることが大切だということを、地球一周の中で学びました。

タヒチの人たちにも、もう少し話を聞いてみたい。きっと私には見えていないものがたくさんあるはずだし、日本の人たちにもっとポリネシアで核実験が行われていたことや、きれいな海の裏側には大変な想いをしている人たちがいるという現実があることを知ってもらいたい。そんな気持ちがだんだんと大きくなってきました。

そして私は去年(2015年)の9月、もう一度タヒチを訪ねました。気になったから、行ってしまった。嫌な顔ひとつしかしないで協力してくれた両親と、周りのみなさんに感謝です。

何も知らず、核実験場で働く人々

【エッセイ】もう一度タヒチへ(ユース非核特使:福岡奈織さん 後編)
タヒチの核実験労働者とともに
タヒチでは、ガビさんと、ガビさんのお宅にステイした経験のある日本人女性の方に大変お世話になりました。ガビさんが本当に親身に元核実験労働者の方を探してくださって、地元の方々の、本当に暖かい協力のおかげで、核実験場で働いていた人たちに7人ほどインタビューすることができました。

そして、3週間の滞在のうち、1週間は、首都パペーテの学生寮に滞在しました。ピースボートで訪れたときにもお世話になったMORUROA E TATOU(モルロア・エ・タトゥ)のオフィスで様々な資料を見せて頂き、タヒチの伝統文化をとても大切にしているラジオ局の見学にも行きました。

ほかにも、学生や20代30代の若者たちと過ごしたり、新しくできた核実験に関する情報を地元の人たちに広めようとする団体のミーティングに参加したり、議会などの役所にも訪れたりしました。

私は現地語もフランス語もできなかったため、コミュニケーションには問題が多々あったのですが、直接自分の言葉で話せなくても、実際に核実験と向き合っている人たちと、個人的に会い、話を聞くことができたことで、わかったことがいくつかあります。

核実験労働をしていた人たちの多くは、核実験が何であるか、そこでの労働がどのようなものかを知らないまま働きに行くことを決めていました。理由は、「お金が必要だったから」です。

より良い暮らしを営むため、家を建て、家族を養い、子どもに教育を受けさせるためにはお金が必要だったといいます。農業や漁業、建築の仕事など、ほかの仕事についていたとしても、その仕事をやめ、核実験場での仕事に就くことを選んだそうです。核実験場での給与が、他の仕事よりも良かったからです。

フランス軍から、核実験場での労働に何らかの危険があるという説明はまったくなかったと彼らは言います。核実験はクリーンで、何の問題もないと信じていたということでした。

なぜフランスではなくタヒチだったのか?

【エッセイ】もう一度タヒチへ(ユース非核特使:福岡奈織さん 後編)
タヒチを再訪して証言を聞き取る
タヒチでは、海に入って魚をとったり辺りに生えているココナッツや果物を自分でとって食べたりすることが、日常の生活の中にあります。しかし、核実験場ではそのようなことはすべて禁止されていました。規則を破って魚を食べたり、海水を飲んだ同僚は、体の不調を訴えて仕事を辞めさせられたという話も聞きました。次第に、この実験は何か悪い影響があるのだと気づきはじめたといいます。

仕事の内容は、様々です。私が話を聞いたのは、核実験が終わった直後に海に潜って海水や生き物のサンプルをとる仕事、人や物を輸送するためのバスドライバー、警備員、電気工、レストランのスタッフ、実験のために爆弾を地中に埋める工事作業、実験後に吹き飛んだ実験装置の修復、核実験施設の建設や解体業などです。

作業の際、直接に土壌やセメントに触れるのはタヒチ人であってフランス人ではなかったことや、フランス人たちは厳重な防護服を着ているのに、自分たちには手袋しか渡されなかったということも聞きました。また、ある人は、爆発があったあとに吹き飛んだセメントを、地中に埋めてその上から土をかぶせ、そのままにしていることを覚えていました。

核実験場となった環礁に空いた穴に核廃棄物を埋めたのですが、今では環礁に亀裂が入っています。そのためいつ核実験場から放射性物質が海に流れ込むか不安だと語る人もいました。

私が話を聞いた人たちの中には、被曝したことによると思われる症状が体にあり、心臓の動悸がしたり、ガンを持っていたり、体調の不良が続いていたりしている人がいます。そして、子どもたちへの遺伝の影響にも不安を抱えていました。家族をたくさん抱えているため、体がしんどくても働く日もあるとのことです。

「これは人種差別だ」と思っているという話は、何度も聞きました。「なぜ、フランスでやらずにタヒチでやったんだ。「なぜ、フランス人は核実験による被爆だと認められ補償を受けているのに、タヒチ人は認められないんだ。と言います。

I feel guilty(罪悪感を覚える)

【エッセイ】もう一度タヒチへ(ユース非核特使:福岡奈織さん 後編)
核実験によって被爆した人々を追悼するモニュメント(タヒチ)
私は今後、核実験労働者のことを卒業論文にまとめたいと思っています。なぜ彼らは核実験場で働くことになったのか。地元の人たちが働くという選択をして、それによって被爆してしまったことは、彼らが選択をしたということに責任があるわけではなく、選択するに至った背景に問題があるのではないかと思うのです。核実験の危険性や、労働の内容に関する説明がなかったこと、核実験は安全だと信じ込むような情報が提供されていたことは大きな要因です。

タヒチでのインタビューの中で本当にもどかしいと思ったのは、元核実験労働者の方から、私は罪悪感を持っているという話を聞いたときでした。彼らの話の中にはときどきこんな言葉が出てきました。ー I feel guilty ー。子どもたちにこんな汚染された島を残してしまったことに罪悪感を覚えると言うのです。

ある会議の場で元核実験労働者の方が「核実験があったことは良くないことだったと思う。でも、私は核実験場で働くことでお金をもらってきた。だから私にも責任があるのではないかと思ってしまう」と言っていました。

自分たちで選んだわけではありません。権力を持っている人たちが始めた核実験でした。最初はみんな、これでタヒチがもっと豊かになると思って喜んだそうです。

一回目の核実験できのこ雲があがった時には、お祝いをしたとも聞きました。でも、それが自分たちの体を蝕み、子どもたちの将来をも脅かしている。そしてそれに関わったことにある種の「申し訳なさ」を感じている人もいるということが、私にはもどかしくてたまらないのです。

まだまだ勉強不足で、わからないことだらけです。論文がうまくかけるのか不安でたまりませんが、出会ったみなさんの言葉とお顔を思い出しながら、じっくり向き合って考えようと思っています。

見えないものを見、聞こえないものを聞く

【エッセイ】もう一度タヒチへ(ユース非核特使:福岡奈織さん 後編)
タヒチでスピーチをする福岡奈織さん
タヒチで、私が「広島から来た学生です」と自己紹介をすると、「広島?!」という驚いた反応が返ってくることがしばしばありました。

そして、広島の原爆の被害や、今の広島の様子などを教えてくれと尋ねられました。ある人は、「あなたは広島から来た学生だから、私たちの状況が理解できるでしょう?」と言って、自分の体のこと、家族のことを丁寧に丁寧に話してくださいました。そして「一緒に頑張ろうね」と手を握って別れました。

私と一緒にユース特使として乗船していた浜田あゆみさんは、高村光太郎の『智恵子抄』という本が好きだと言って、その本の中に出てくる次の言葉を紹介してくれました。

「智恵子は見えないものを見、聞こえないものを聞く」。

多少文意は違うのですが、私はこれから、見えないもの、聞こえないものに、目を凝らし、耳を澄ましていたいと思っています。そうしてひろったものを大事に受け止めたいと思います。

タヒチで私が出会った人たちの声は、確実に私の中に届きました。これからは、私がこの声を形にして、日本の人たち、世界の人たちに届けなくてはいけないという使命を感じています。

同じく、広島・長崎の被爆者の声も、彼らがいなくなってからの時代を生きる一人として、受け継いでいく責任を感じています。「核」の犠牲になってきた人たちの声を受け止めることは、私たちがこれからどんな生活を選び、どんな世界を望むのかにつながる話です。

広島と長崎、そしてタヒチの人たちから聞いた「子どもたち、孫たちに平和な世界を残したい」という言葉。この想いを、受け継いでいきたいと思います。

被爆者との地球一周を経て、タヒチを訪れたことまでを書いてきましたが、私がおりづるプロジェクトに参加することで受け取ったものは、核に関することにとどまらず、私の世界観や価値観、生きたい人生のビジョンにも大きく影響するものでした。

ここに書いても書ききれない人たちとの出会い、言葉では表すことができない風景や、空間との出会いが、今の私をつくりあげてくれていると感じます。これからも、この経験から得た感覚を、しっかりと味わっていきたいです。そして、私の出会った世界中の人たちが、幸せだと思う瞬間が多く訪れることを心から願っています。

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