【エッセイ】「被爆者」がただの「ひばくしゃ」じゃなくなった (ユース非核特使:福岡奈織さん 前編)

プロジェクト:おりづるプロジェクト 寄港地エリア:太平洋 クルーズ: 第87回 地球一周の船旅
【エッセイ】「被爆者」がただの「ひばくしゃ」じゃなくなった (ユース非核特使:福岡奈織さん 前編)福岡奈織さん(第83回ピースボート出航記者会見にて)
第7回おりづるプロジェクト(第83回地球一周の船旅)に、ユース非核特使(※)として乗船した福岡奈織(なお)さんの寄稿文を、2回にわたって紹介します。広島の大学生である福岡さんは、21歳のときにピースボートに乗船しました。福岡さんの印象に残ったのは、フランスによる核実験が行われたタヒチへの訪問でした。タヒチのヒバクシャとの出会いを経て、彼女はクルーズ終了後に再度タヒチを訪れることになります。そうした出会いを通じて、彼女が感じたことは何だったのでしょうか?(以下本文)

※ユース非核特使
被爆者の体験を継承し、国際社会に訴える若い世代に対して、日本政府(担当は外務省)が委嘱する制度。

被爆者と地球一周した理由

【エッセイ】「被爆者」がただの「ひばくしゃ」じゃなくなった (ユース非核特使:福岡奈織さん 前編)第83回ピースボートに乗船したおりづるプロジェクトのメンバー(右から2人目が福岡奈織さん)
生まれて初めて船で地球一周したこと、そしてその時間の多くを広島・長崎の原爆被爆者の皆さんと共に過ごしたことは、言い尽くせないほど感銘を受けるものでした。思い出す度にドキっとし、いろんな感情が込み上げてきます。

原爆被爆者との地球一周は、間違いなく私の人生にとって大きい影響を与えてくれました。私がおりづるプロジェクトに参加した理由は、広島・長崎の被爆者のみなさんと、長い時間を一緒に過ごし、いろんなことを一緒に体験できると期待したからです。

生活を共にしながら、地球のあちこちを訪れて、たくさんの共同作業をしながら感じたことを共有する。こんな恵まれた機会はもう二度とないかもしれないと思ったからです。

私の背景をお話します。私は、広島で生まれて広島で育ったのでいつも身近に「原爆」とか「被爆者」という存在がありました。例えば学校の授業の中でとか、地域の人たちの活動の中でとか。街には原爆ドームも平和公園もあるし、とにかく身近にあるものでした。

大学生になったときに、せっかく広島にいるし、「原爆」のことをもっと知りたいと思いました。そこで、被爆体験を聞いたり、被爆者と関わって活動をしている人たちに会いに行ったりしてみて、実際に少しずつ活動に参加するようになりました。

そこで出会った人たちがいつも言っていたことが、「継承する」ということでした。

被爆者の心ってなんだ?

【エッセイ】「被爆者」がただの「ひばくしゃ」じゃなくなった (ユース非核特使:福岡奈織さん 前編)外務省からユース非核特使を委嘱される
「あんたら若者がね、期待の星なんよ」。そういって大人の人たち、おじいちゃんおばあちゃんたちに手を握られることがしばしばありました。

なるほど、私たちみたいな若い世代の人たちにできることがあるんだなと感じていました。期待されるのは嬉しいことです。でも、何をしたらいいのかさっぱりわかりませんでした。

「若い人たちに継承していってほしい」。その言葉はよく聞きます。じゃあ具体的に私たちって何をしたらいいんですか?「被爆者の心を伝えていってほしい」。とも言われますが、「被爆者の心ってなんだ?戦争も原爆も知らない私たちが、果たして伝えられるものなのか?というとまどいがありました。

「継承する」を誰かがやらなくちゃいけないってことは、よくわかる。でも、何ができるのか、何が求められているのか、何をしたら「継承」と言えるのか、う~ん、よくわからなかったのです。

そんな時に、ピースボートの「おりづるプロジェクト」に出会いました。ちょうどユース非核特使として参加するチャンスがあるという話を聞いた時、私は大学に通うことに対するやる気がほとんどない時期でした。

その理由は、大学に通い続けて、私が何を得られるのかよくわからなかったからです。期末課題を目の前にして、おりづるプロジェクトのことを考えました。ちょっと大学を休んで、自分の興味のあることに素直になってみようと思ったのです。

100日間、被爆者と向き合って、「継承ってなんだ?」という疑問の答えを見つけよう、そう決意しました。

「被爆者」がただの「ひばくしゃ」じゃなくなった

【エッセイ】「被爆者」がただの「ひばくしゃ」じゃなくなった (ユース非核特使:福岡奈織さん 前編)おりづるプロジェクトで乗船した被爆者の方々とともに(タヒチ)
そうして参加したおりづるプロジェクトは、期待していた通り、被爆者のみなさんとの濃密な時間を過ごすことのできるものでした。毎朝1時間のミーティング。次の寄港地で行う証言会で何を伝えるかという議論。船の中での企画の準備。ご飯の時間やおやつの時間。人生相談から社会の話、他愛ないおしゃべりの時間まで、本当にたくさんのことに一緒に取り組んできました。

8人の被爆者メンバーと、2人のユースと、1人のピースボートスタッフ。それぞれに伝えたいこともやりたいこともたくさんありました。特に寄港地では、時間も限られているし、そこで出会う人たちとはもう二度と出逢えないかもしれない。

人生で一度しか出会わないかもしれない広島・長崎の被爆者として、ユースとして、何を伝えようかと、意見がぶつかることもしばしばで、なかなかお互いのことが理解できないこともありました。だけど、その度に話を重ねながら、なんとか進んできました。

そんな毎日を経て、私の中で変化したことがありました。それは、私にとって被爆者はただの「ひばくしゃ」ではなくなったことです。一人一人と話をし、一人一人の心の内側に触れていると、世代を超えた大親友が何人もできたようでした。

今までは「ひばくしゃ」という言葉にくくりつけてしか、被爆者について考えたことがなかったことに気づかされました。もっと身近で、もっともっと大切なおじいちゃんおばあちゃん。

この人たちの人生には、70年とか80年の間に本当にいっぱいドラマが詰まっていました。恋愛もしたし、仕事もしたし、いろーーんなことがあった。それって私たちと何にも変わらないじゃないか?そう思うようになりました。

でもそれと同時に、彼らの人生の中には「原爆」がある。当たり前の話なんだけど、私たちと同じように若い時代があって、喜怒哀楽いろんな感情があって、その中に「原爆」がある。

原爆って、被爆って、こんなに仲良くなったおじいちゃんおばあちゃんの中に影を落としているものなんだなって思いました。「核兵器はもうあっちゃいけない。繰り返しちゃいけないんだ」。広島では身近になりすぎてセリフのように感じていたその言葉が、ずっしりと私の中に響いてきました。

「被爆者の心」って、こうして面と向かって話をしていくうちに見えてくるもので、そうすることが「継承する」ことの初めの一歩なんだと気づきました。同時に、原爆のことを考える、核問題を考える、そういうことの重要性は、こうやって人生の中に「被爆」が入ってきてしまった人たちの側から考えることにあるんだと気づきました。

タヒチの「ひばくしゃ」と出会う

【エッセイ】「被爆者」がただの「ひばくしゃ」じゃなくなった (ユース非核特使:福岡奈織さん 前編)タヒチで証言を行う元核実験労働者
私たちが航海の中で、違う国の「ひばくしゃ」と出会ったのが、フランス領ポリネシアのタヒチ島を訪れた時でした。フランス領ポリネシアでは、1966年~96年まで、フランスによる核実験が行われており、その核実験場で働いていた労働者の多くが被爆したという事実があります。

タヒチ島に到着するまでの船の中で、水先案内人として乗船していたガブリエル・テティアラヒさん(以降、ガビさん)がタヒチの話をしてくれました。タヒチの生活のこと、ポリネシアの文化のこと、そして核実験のこと。

初めて彼の体験した核実験の話を聞いた時、私はとても驚きました。彼は、子どものときにフランス軍に連れられて核実験のきのこ雲のほうを見るように言われたそうです。そう遠くない場所から見たきのこ雲を、よく覚えていると話していました。

また、一部の地域では、住民はキリストの十字架を家に飾るように、きのこ雲の写真を飾っていたというのです。核実験は恩恵のあるものだと信じていた、とそう話していました。

そして、タヒチ島に到着した時には、現地のMORUROA E TATOU(モルロア・エ・タトゥ)という団体の方たちと証言会を行いました。数人の元核実験労働者の方が、核実験労働に関する経験を話してくださいました。

短い時間でしたが、核実験場で働いていた友だちが海の魚を食べて亡くなったという話や、核実験労働の間は核実験が悪影響をもたらすものだとはまったく知らなかったこと、そして被爆が原因で病気になり苦しんでいる人たちがいることを聞きました。

また、核実験によって被爆したことについて、フランスから補償をもらうことができていないという実態も知りました。

広島・長崎だけじゃない

【エッセイ】「被爆者」がただの「ひばくしゃ」じゃなくなった (ユース非核特使:福岡奈織さん 前編)タヒチアンミュージックで歓迎を受ける
広島・長崎の被爆者は、今では被爆証言として、核兵器がどんなにか惨いものであるのかを証言することができます。しかし、タヒチの人たちは現在もフランスの植民地下にあることや、核実験に対する肯定的な印象がわずかに残っているという環境によって、公に被爆について話をすることは簡単ではありません。

その中で、「どうやってこの記憶を次世代に伝えていくか」ということも、大きな課題として話の中にあがりました。「若い人たちに伝えていくことって大事ですよね」と簡単には言えない状況を、みんなで噛みしめていたことを記憶しています。

私にとっても、きっと広島・長崎の被爆者のメンバーにとっても、被爆者は、広島・長崎だけにいるんじゃない。そのことを、実感する大きな機会となりました。

タヒチの海は本当に澄んでいて美しかったです。移動中のバス車内では、タヒチの若者たちがウクレレと歌でおもてなしをしてくれました。きれいな花のレイや、手作りのおいしいご飯もごちそうになりました。

こんなにきれいな島で、被爆に苦しんでいる人たちが大勢いるんだな…。と感じ、「これからも、お互い頑張っていきましょうね」と励まし合っていた、タヒチと日本の被爆者の姿が心に残っています。

※福岡奈織さんエッセイ後編では、タヒチへの再訪を果たし、聞き取り調査の末に感じたことをつづってくれています。お楽しみに。

インフォメーション

ピースボートの活動
PROJECTS